スタール夫人はフランスの文学者で政治家(1766―1817)。フランス革命では、ナポレオンの独裁にたいして自由主義的な立場で戦った。パリでサロンを主宰し、サロン文化の代表的人物となった。文学では、『文学論』や『ドイツ論』を執筆し、ドイツのロマン主義文学をフランスに持ち込み、自らも小説『デルフィーヌ』などを執筆した。
スタール夫人(Madame de Stael)の生涯
スタール夫人はフランスのパリで、スイス人の銀行家の家庭に生まれた。本名はアンヌ・ルイーズ・ジェルメヌ・ネッケル。父はジャック・ネッケルであり、フランス王ルイ16世のもとで財務長官をつとめた。
母はパリでサロンを開いた。スタール夫人は早くから母のサロンに同席した。そこには、著名なグリムやビュフォン、ディドロなどが参加していた。彼女は知的好奇心と優れた才覚で知られるようになった。
1786年、スウェーデン大使のエリック・ド・スタール・ホルスタイン男爵と結婚した。スタール夫人の名称はこの夫に由来している。
フランス革命へ
1789年、フランス革命が始まった。スタール夫人は革命を支持した。父と同様にモンテスキューの影響を受けていたため、イギリスのような立憲君主制を支持していた。革命の動乱の中で、スイスやイギリスに移った。
サロンの成功:コンスタンとの出会い
1794年、ロベスピエールの恐怖政治が終わった後、スタール夫人はパリに戻ってきた。スタール夫人はドイツのロマン主義に注目するようになった。シュレーゲルやヴィルヘルム・フォン・フンボルトなどの著作を読んだ。
このころ、サロンを主催した。これが成功し、彼女は名声を得た。バンジャマン・コンスタンと知り合い、愛人の関係となった。コンスタンを介して、ドイツのロマン主義により傾倒するようになった。周囲からは、コンスタンはスタール夫人の弟子のようにみえた。なお、夫とは1797年に正式に離婚した。
革命の進展の中で、スタール夫人は『平和についての考察』などで革命の考察を行った。ジャコバン派がある程度民衆を支配しているとしても、真の支配者は民衆であると論じた。そして、民衆の支配がロベスピエールのような恐怖政治に傾くとも指摘した。
その結果として、革命によって社会の秩序が崩壊しつつある中で、スタール夫人はフランスが代議政体のもとでしっかりと機能するためには、適切な習俗の再建が必要だと論じた。そのためには、憐憫の情が鍵になる、と。
『文学論』
1800年代に入ると、スタール夫人は活発に文学活動を行った。1800年に評論『社会制度との関係において考察された文学について』を公刊した。これは『文学論』の名でも知られる。本書は様々なテーマをもっており、複雑な構成をとっている。
そこでは、スタール夫人は自身の文学理論を展開した。北方の文学と古典文学を区別し、前者に軍配を上げた。この点で、本書はフランスのロマン主義の形成において重要な著作と評されている。また、中世を暗黒と停滞の時代とみなす当時の見方に反論するなどして、中世への関心の惹起にも貢献した。
本書のタイトルにみられる社会と文学の関係については、次のような理論が展開された。統治の仕組みが習俗に大きな影響力を与え、さらに習俗が文学の性質を決定する、と。統治の仕組みは専制と貴族制および民主制である。
そこで許容される自由の程度が重要とされた。たとえば、自由な政府は哲学的で現実主義的な習俗をうみ、この習俗が有用性重視の文学を生み出すとされた。
この点で、同時に別のメカニズムも提示された。イギリスとドイツの北方諸国と、フランスやイタリアそしてスペインとギリシアの南方諸国の区別である。は、文学文化の違いだけでなく、特定の性格的特徴(北方諸国は勇敢で精力的、憂鬱で想像力豊かである。
これにたいし、南方諸国は不道徳で享楽主義、皮相的である。これはローマ帝国の最終的な堕落に起因している。このような南北の性格の違いもまたそれぞれの文学の違いの原因として示されている。このような仕方で、それぞれの文学の違いと特徴が説明される。
本書は成功し、スタール夫人は名声を高めた。たとえば、スタール夫人はそれぞれの国民の慣習や芸術そして思想の特殊性を、各国民性に共通する原理にまでたどるのに成功したと評された。
あるいは、一見してあまりに多様な各国民の趣味嗜好や道徳などを、それぞれの社会の構造や自然的環境、信条や迷信など結びつけることによって、解明するのに成功したと評された。
1802年、小説『デルフィーヌ』を公刊し、自身の理論を実践してみせた。当時のフランス社会での女性の地位や扱いに問題を感じ、それらの陋習の打破を目指そうとした。この作品は成功を収めた。
ナポレオンとの対決
そのかたわら、スタール夫人はナポレオンと対立した。1800年代に入り、ナポレオンの人気は高まっていった。だが、スタール夫人はリベラルな政治を志向しており、ナポレオンの独裁的傾向に対抗するようになった。
そのため、1803年、ナポレオンはスタール夫人をパリから追放した。同時、ナポレオンはスタール夫人の動向を強く警戒し続けた。
外国と祖国の間で:ゲーテやシラーとの交流
スタール夫人はドイツに移った。ゲーテやシラー、シュレーゲルらと交流をもった。その後もイタリアを訪れ、1805年にフランスに戻った。その経験をもとに、小説『コリーヌあるいはイタリア』を著した。そこでも、女性の立場の上昇を訴えた。
コリーヌより
『ドイツ論』
さらに、1810年、『ドイツ論』を公刊した。これは当初、ナポレオンに献呈された。本書はドイツの習俗や道徳、芸術や宗教などを広く論じたものだった。これによって、18世紀後半のドイツ文学の「疾風怒濤」運動をフランスに持ち込んだ。
ナポレオンは『ドイツ論』がフランスに反する著作だと考え、この著作の発禁などで彼女に対抗した。フランスにドイツ文学を受け入れるつもりはなかったのだ。さらに、スタール夫人は官憲に追われた。自身の著作の草稿を押収されそうにもなった。そのため、再び出国し、スイスやロシア、スウェーデン、イギリスなどを転々とした。
その頃、ナポレオンがロシア遠征に失敗し、失脚した。そのタイミングで、1814年、スタール夫人は帰国した。ナポレオンがエルバ島から脱出してパリに戻ってきたため、スタール夫人はイタリアに逃れた。その後、ナポレオンはワーテルローの戦いで敗北し、完全に政治的生命を断たれた。
最晩年
その後、スタール夫人はパリに戻った。サロンを開いて、ヨーロッパの王侯貴族をもてなした。当時問題となっていた奴隷貿易の廃止などを訴えた。彼女のサロンはかつてほどの成功を収めなかった。1817年、病没した。
スタール夫人と縁のある人物
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スタール夫人の主な著作・作品
『社会制度との関係からみた文学』(1800)
『デルフィーヌ』(1802)
『コリーヌあるいはイタリア』(1807)
『ドイツ論』(1810)
スタール夫人の肖像画
おすすめ参考文献
三浦信孝編『作家たちのフランス革命』白水社, 2022
工藤庸子『スタール夫人と近代ヨーロッパ : フランス革命とナポレオン独裁を生きぬいた自由主義の母 』東京大学出版会, 2016
John Claiborne Isbell, Staël, Romanticism and revolution : the life and times of the first European, Cambridge University Press, 2023
Roberto Romani, National character and public spirit in Britain and France, 1750-1914, Cambridge University Press, 2002