グレゴリウス7世:教皇至上主義者

 グレゴリウス7世は11世紀のローマ教皇(1025ー1085)。カトリック教会の刷新や変革をもたらしたグレゴリウス改革と、それに起因した皇帝ハインリヒ4世との叙任権闘争(カノッサの屈辱など)で知られる。
 この記事では、グレゴリウス改革や叙任権闘争がなぜ教会の歴史以外でも、広くヨーロッパ史において極めて重要なのかも説明する。

グレゴリウス7世(Gregorius VII)の生涯

 グレゴリウス7世はイタリア北部のトスカナ地方で中流家庭に生まれた。本名はヒルデブランド。ラテラノやケルンで学んだ。その後、ローマに移った

 1049年、ローマでは、ヒルデブランドは当時の教皇レオ9世の後押しによって、サン・パウロのベネディクト会修道院の修道院長になった。
 さらに、ドイツやフランス、イタリアで教皇大使をつとめた。その後も、彼は教皇庁で順調に地位を確立していった。
 1073年、教皇グレゴリウス7世に即位した。

 グレゴリウス改革の衝撃

 グレゴリウス7世の即位より少し前から、カトリック教会では教皇主導で改革の機運が高まり、徐々に実践されていた。グレゴリウスは即位前からそれを補佐していた。
 ついに彼が即位し、この改革は本格化した。それゆえ、この改革はグレゴリウス改革と呼ばれる。
 グレゴリウス改革はそれまでの教皇と皇帝あるいは王の関係を大きく変更し、教皇優位の体制をうみだそうとする非常に野心的な企てだった。この企てが原因で叙任権闘争が生じることになる。
 そのため、叙任権闘争をしっかり理解するには、まずグレゴリウス改革の内実をしっかり理解する必要がある。

 その内容としては、まず教会の刷新という側面が指摘される。具体的には、聖職者の地位を売買したり、聖職者が結婚したりすることなどを禁止した。

教書「ディクタトゥス・パパエ」:改革のビジョン

 さらに、1075年、グレゴリウスは教書「ディクタトゥス・パパエ」を公布した。教皇として命令を出したのだ。この教書に、グレゴリウス改革のビジョンが表れている。四点が重要である。

1,聖職者主義

 第一に、聖職者主義である。これは聖俗を峻別して、聖職者の優位を示すことである。それまでも、俗人と聖職者の区別は存在した。だが、キリスト教徒であれば、両者の区別はたいして重要な意味をもたないことが多かった。

 しかし、グレゴリウス改革では、両者は明確に区別された。その上で、聖職者が俗人よりも人間として優れていると論じられた。
 なぜか。中世キリスト教の考えでは、世俗的なものはこの世界に属する。この世界はいずれ最後の審判によって消滅する一時的なものでしかない。
 これにたいし、霊的なものは神やキリストに属し、最後の審判の後も永遠に存続する。そのため、霊的なものと世俗的なものは大いに異なるものとして区別される。

 さらに、霊的なものは世俗的なものよりも圧倒的に優れており価値がある。俗人は世俗的なものに対応し、聖職者は神のしもべとして霊的なものに対応する。したがって、聖職者は俗人よりも人間として上位の存在である、ということになる。

2,教会の自由

 第二に、教会の自由である。それまで、キリスト教会では皇帝や王のような俗人が教会の主導者となることもしばしばみられた。
 たとえば、古代ローマ皇帝のコンスタンティヌス帝や神聖ローマ皇帝のカール大帝である。ビザンツ帝国も同様である。皇帝が高位聖職者の選任や教義の決定、主要な教会会議の召集などを行っていた。
 グレゴリウスはこの状況を大きく変更しようと試みた。聖職者主義のもとでは、教会の主導者は皇帝や王のような俗人ではなく聖職者でなければならない。
 このようにして、グレゴリウスは教会の主導的地位から皇帝や王を排除しようとした。すなわち、教会は皇帝や王という俗人の支配から自由でなければならない。

3,教会の王政

 第三に、教会の王政である。すなわち、キリスト教会はピラミッド型の組織形態をもつ。中央集権の体制である。その頂点に君臨するのは王や皇帝ではなく、聖職者である。どの聖職者でもよいわけではない。そのトップはほかでもない、ローマ教皇である。いわば、教皇がキリスト教会の王である。

 よって、教皇が教会の最高の主導者である。なお、この教会のヒエラルキーにおいては、司祭が王や皇帝よりも上位にあるとされる。

4,世俗的問題での教皇権の優位

 第四に、教皇が世俗の問題にかんしても皇帝や王に優位することである。そのため、教皇は皇帝や王を教会罰として破門にできるだけではなく、廃位することもできる。すなわち帝権や王権を奪うこともできる、と。
 当然ながら、このような主張は皇帝や王から猛反対を受けることになる。教皇には世俗的野心があると批判された。

東方教会との対立という背景

 グレゴリウス改革は東方のギリシャ正教会との争いをも背景としたものだった。ローマ教皇は西欧のカトリック教会のトップを自認していた。東方のビザンツ帝国には正教会が存在していた。

 1054年、カトリック教会と正教会が教義などをめぐって明確に対立した。この流れで、西欧のみならず世界全体のキリスト教のトップはローマ教皇であるとグレゴリウス改革で宣言された。このように、グレゴリウス改革はキリスト教会全体の主導権をめぐる闘いでもあった。

 このような極めて野心的な改革をグレゴリウスは推進した。当然、様々な反対を受けることになる。この動きは近代に入るまで続く。

 叙任権闘争へ

 グレゴリウス改革の一環で、グレゴリウスは俗人が聖職者を叙任することも禁止した。さらに、グレゴリウスは神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と、ミラノの大司教の任命をめぐって対立した。これらが叙任権闘争を引き起こすことになった。

 叙任権闘争は、皇帝や王が聖職者を任命したり叙任したりする権利を持つかどうかをめぐって生じた闘争である。皇帝や王がこれらの権利を持たないことは、当時の社会では皇帝たちにとってかなりの痛手だった。

 なぜなら、特に司教などの高位聖職者はしばしば同じ地域の領主も兼ねていたからである。いわば、東京の大司教は同時に東京都知事でもあったのだ。
 それゆえ、皇帝が東京の大司教を選べないなら、都知事も選べないことになる。むしろ、教皇の味方をする都知事が選ばれてしまう。それゆえ、叙任権闘争は激化した。

 ハインリヒ4世への破門:カノッサの屈辱とクリュニー修道院

 上述のミラノ大司教の任命をめぐる対立は激化していった。1076年、ハインリヒは教皇を罷免すると宣言した。これにたいし、教皇は皇帝を破門すると宣言した。
 1077年、皇帝が折れた。イタリア北部のカノッサ城で、皇帝がグレゴリウスの破門の撤回を求めて屈服した。カノッサの屈辱である。

 ちなみに、カノッサの屈辱で皇帝の謝罪の保証人になったのは当時のクリュニー修道院の院長だった。当時のクリュニー系統の修道院は 1000を超えるような大きな組織のトップである。

グレゴリウスの憤死へ

 だが、皇帝は勢力を回復して、反転攻勢に出た。グレゴリウスは再度破門を宣言したが、無駄だった。1084年、ついに皇帝はローマを攻撃し、占領した。

 グレゴリウスはサレルノに逃亡した。皇帝はグレゴリウスの代わりに、新たに教皇クレメンス3世を擁立した。グレゴリウスは挽回できぬまま、その地で憤死したといわれている。

 グレゴリウス7世の重要性

 グレゴリウス7世の改革は、その後のローマ教皇庁の趨勢を規定したといわれている。彼は教皇権の権益拡大を目指した教皇至上主義の代表例として知られる。同様の代表例はインノケンティウス3世やボニファティウス8世が挙げられる。

 グレゴリウスは1606年、教皇パウルス5世によって列聖された。

 グレゴリウス7世と縁のある人物

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グレゴリウス7世の肖像画

グレゴリウス7世 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

瀬戸一夫『時間の政治史 : グレゴリウス改革の神学・政治論争』岩波書店, 2001

井上雅夫『西洋中世盛期の皇帝権と法王権 : ハインリヒ三世・グレゴリウス七世・ハインリヒ四世をめぐって 』関西学院大学出版会, 2012

Francis Oakley, The mortgage of the past : reshaping the ancient political inheritance (1050-1300), Yale University Press, 2012

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