夏目漱石の「教育と文芸」の要約・紹介

 この記事では、夏目漱石の「教育と文芸」を要約しながら紹介する。
 1911年、夏目は長野県会議事院に招待され、文芸と教育の関係について講演した。そのときの内容は「教育と文芸」として公刊された。この講演は、文学と教育および社会のそれぞれの関係にかんする夏目の考えを見て取れる興味深い講演である。
 漱石はこの時期には、松山や熊本での教師生活を終え、イギリス留学を経験し、『坊っちゃん』や『 吾輩は猫である』そして『それから』などの名作を世に送り出していた。すでに傑出した文化人となっていた漱石は1910年代に社会批評も行うようになった。「教育と文芸」はその一つである。

講演の内容

 講演の冒頭で、夏目はここでの教育が学校教育だけでなく社会教育や家庭教育を含む広い意味で捉えられているという。また、文芸は文学を主に意味し、特に小説や戯曲を指す。よって、広い意味での教育と小説・戯曲の関係が論じられている。

 伝統的教育とは

 夏目は日本の教育を伝統的教育と明治以降の教育に区別する。伝統的教育は理想を立て、その理想をどうにか実現しようとする教育である。この理想を実現可能なものとみなして、その実現を目指した。

 しかし、実際には、釈迦や孔子のような実現不可能な理想が設定されていた。しかも、この理想は上の者が下の者にのみ設定したのであり、逆はなかった。たとえば、親は子供に対して理想のあり方を設定し、そうなるよう要求した。だが子供は親にたいして同様に設定して要求するということはなかった。
 なぜ伝統的教育はこれらの誤りを犯していたのか。夏目はその原因をこう述べる。かつての日本には「科学的精神が乏しかったためで、その理想を批評せず吟味せずにこれを行なって行ったというのである」。

 ほかの原因としては、かつての日本では階級制度が厳しかったので、過去の偉人は非常に偉く見えるためである。あるいは、昔は交通が不便だったので、遠くの偉人の偉さが非常に誇張されて伝わってきたためである。
 夏目は日本の伝統的教育が情緒的な感激教育であると説明する。この教育では、あまりに高すぎる目標に到達させるために、激しい感情や情緒を用いた。というのも、確固たる精神さえあれば、何でも実現できると思われていたためである。

 十分な熱意と努力があれば何でもできると思われたのだ。このような教育を受けた人々の社会は、非常に厳格なものだった。少しでも過ちが起こされれば、すぐに切腹するという情緒の激しいものだった。

 明治の教育とは

 だが、夏目は明治時代から日本の教育が変化してきたという。伝統的教育は理想から出発するのにたいし、現在の教育は事実から出発する。後者の場合、人間の実際の姿を認めるところから始めるため、理想の実現の難しさや人間の弱さや表裏のあることなどを認める。よって、自己自身と社会も教育の対象になる。

 伝統的教育と明治の教育の比較

 伝統的教育では唯一の理想を社会のあらゆる面に適用する一元主義だったのにたいし、現在の教育はそれには無理があると考え、物事にニ面性を認める二元主義である。現在の教育は伝統的教育の激しい情念を冷まし、人々の目を醒ませるものである。夏目はこのような変化の原因を科学とその精神の発展と社会への応用に見出している。
 教育の違いは道徳的な違いをうむ。夏目は伝統的な教育では人々が理想に縛られ、厳格であるという。理想からの逸脱が許されない。実際に逸脱した場合には、痩せ我慢して、理想に合致するよう振る舞う。よって不正直になる。

 これにたいし、現在の教育のもとでは、人々は自分たちの事実を認める。良い点だけでなく悪い点も率直に認める。そのため、自他に対して寛容になり、正直である。社会的制裁が弱まり、社会はゆるやかになる。

 文学の区別:ロマン主義と自然主義

 夏目は文学の考察に移る。夏目は文学がロマン主義と自然主義の2つに大別されるという。さらに、ロマン主義は上述の伝統的教育と合致するのに対し、自然主義は現在の教育と相通ずる。
 ここで、夏目は文芸が道徳を超絶するという芸術主義について論じる。芸術主義は「大なる間違」である。というのも、文芸と道徳の「大部分は相連なっている」ためである。

 たしかに、両者が対立して二者択一せねばならないこともある。その場合、究極的には、倫理的に許容できるものでなければならない。「小説戯曲の材料は七分まで、徳義的批判に訴えて取捨選択せられる」ことになる。

 ロマン主義の道徳

 では、それぞれの道徳はどのようなものか。夏目の分析によれば、ロマン主義は或る情緒を誇大化して理想を描きあげる。人間を人間以上の偉大なものとして描きあげる。

 その分、事実から遠ざかるが、偉大さや崇高さにかんする強い感情を喚起させる。人間には、自分よりも高いものへの根本的な欲求がある。そのため、ロマン主義は永久に人間の精神に根ざすことになる。

 自然主義の道徳

 これにたいし、自然主義は理知的であり、事実に即して自己の欠点をも暴露させる正直なものである。事物をありのままに捉える。その結果、自然主義には、現実をそのまま肯定し、向上心が弱くなるという欠点もある。
 そのため、今日の日本では自然主義が嫌われるようになってきた、夏目はいう。しかし、本来の自然主義の文学は道徳的な要求を無視するものでない。無視するようなものは出来損ないの芸術である。

 上述のように、文学は道徳に合致するものでなければならない。とはいえ、今日の自然主義文学者の中には、この欠点をもつ者もいるのは確かである。だが、これはロマン主義への反動でそうなったにすぎない。

 新ロマン主義の道徳へ

 では、どうすべきか。夏目は新ロマン主義の樹立を提案する。これはロマン主義と自然主義を経験した後に生まれてくるものであり、どちらかに逆戻りするものではない。両者にはそれぞれ、上述のような利点と欠点がある。

 それぞれの欠点を回避し、利点をとる。「新ローマン主義は、昔時のローマン主義のように空想に近い理想を立てずに、程度の低い実際に近い達成し得えらるる目的を立てて、やって行くのである」。どの程度理想的であり、どの程度現実的かは、それぞれの社会によって決まってくる。それぞれの社会に基づいて両者を調和させることが肝要である。

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 「教育と文芸」の原文は青空文庫にある。

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