ルイ14世:フランス王権の絶頂期

 ルイ 14 世はフランス国王 (1643 ー1715 )。ブルボン朝の王で、大王あるいは太陽王と呼ばれた。幼少期は反乱に苦しんだ。その後フランスの絶対王政を体現するほど王権を伸長し確立したと評されてきたが、この見方は批判も受けている。「朕は国家なり」が有名である。これからみていくように、ルイ14世に帝王道を教えてフランス王権の絶頂期に導いたのは、あの傑出した人物だった。

ルイ14世(Louis XIV)の生涯

 ルイ14世はブルボン朝の王であり、ルイ13世の長男として生まれた。ルイ14世の後継者は曾孫のルイ15世である。

 ルイの幼少期:マザラン

 ルイ14世が5歳のときに父が没し、ルイ14世としてフランス国王に即位した。幼い彼の代わりに、母が摂政となり、ジュール・マザランを宰相に選んだ。マザランが没するまで、ルイは実権を握れないままとなる。とはいえ、マザランから優れた君主となるよう政治や外交などについて教わることになった。

 マザランはルイ13世の時代から宰相としてフランスの実権を握っていた。フランス王権の強化・拡張を目指す政策を遂行していた。そのため、フランスの絶対王政が発展していった。しかし、マザランは王権を拡張する際に、貴族の特権や利益を犠牲にした。

 フロンドの乱

 ついに、その不満がピークに達した。貴族たちはマザランや王権にたいして反乱を起こしたのだ。これはフロンドの乱と呼ばれる。幼少期にこのような経験をしたため、ルイは疑い深い性格になった。特に、大貴族を信用せず、自身が子飼いした小貴族などを重用することになる。

 1653年、ようやくフロンドの乱が沈静化した。ルイとマザランはパリに戻り、実権を取り戻した。マザラン主導のもと、フランスはスペインとの戦争に打ち勝った。スペインは現在では西洋列強の一つとみなされていないが、17世紀前半は西欧の最も強大な国の一つだった。フランスやイギリスなどはスペインの権勢を抑え込もうとした。

ピレネー条約:スペインのマリア・テレサとの結婚

 フランスはこのスペインとの戦いに勝利し、1659年にピレネー条約を結んだ。その内容の一つに、ルイ14世とスペイン王女のマリア・テレサ(マリー・テレーズ)の政略結婚が含まれていた。この時、マリア・テレサは多額の結婚持参金をフランス王権にもたらすことで、スペインの王位継承権を破棄すると定められた。
 だが、スペインがこの多額の持参金を支払えないだろうとマザランは考えていた。実際に、この政略結婚がのちのフランスの拡張戦争を正当化する根拠として利用されることになる。

 ルイ14世の絶対王政:朕は国家なり

 マザランが没した後、1661年から、ルイ14世の親政が始まった。すなわち、ルイが自ら実権を握り、政治を行った。これは当時のヨーロッパでは例外的だった。というのも、当時は君主が寵臣に政治を委ねるのが一般的だったからだ。だが、ルイは1715年に没するまで、実権を行使し続けることになる。

 それまで、フランスではマザランやリシュリューという優れた宰相たちによって、中央集権的な官僚制国家が構築されていった。王の中央政府の権力がフランスの隅々にまで行き届いていない時代のことである。

 各地の貴族や都市が自身の領地で実権を握っていた。リシュリューらはこれらの権力を奪い、王権のもとに置こうとした。それに成功していき、絶対王政が構築されていった。ルイ14世はその頂点に位置すると評されている。

 ルイ14世自身が「朕は国家なり」と述べたかは不明である。ルイはこの言葉を体現するような王権を確立しようと試みた。だが、ルイが絶対王政の理念を完全に実現したとはいえなかった。

絶対王政を演出する

 ルイは絶対王政を演出した。自身を太陽王と位置づけ、王権を荘厳なものとして貴族や民衆に受け入れさせようとした。そのために、豪華な儀式や祝宴を行い、彼らを精神的に屈服させようとした。

ヴェルサイユ宮殿で催された演劇

ルイ14世のヴェルサイユ宮殿で催された演劇 利用条件はウェブサイトで確認

 また、ルイは様々な芸術のパトロンとなった。絵画や彫刻、建築などのアカデミーが創設され、王権から支援を受けた。優れた外国人の芸術家も雇用された。ルイは音楽やダンスにも熱中し、作曲家のリュリらの作曲などを支援した。演劇では、モリエールを支援した。

 学芸の振興策はとくに建築で成果がみられた。建築家のル・ヴォーやル・ブランが完成させたヴェルサイユ宮殿が代表例である。これはフランスの新たな王宮として誕生した。また、科学アカデミーを設立するなどして、学問の発展も推進した。ただし、検閲制度も整備した。

 宗教との関係:ガリカニズム

 宗教との関係では、ルイは王としてフランス国内の宗教的権威もしっかりと握ろうとした。というのも、当時はキリスト教の宗教それ自体が一種の権威だったためである。

 対外的には、ルイはローマ教皇がフランス教会にたいして権威をもたないと主張した。中世以来、ヨーロッパでは、ローマ教皇がキリスト教会全体に普遍的権威をもつと主張していた。

 だが、フランスでは、この教皇の普遍的権威に反対する動きが14世紀初頭から起こっていた。中世の有名な教皇ボニファティウス8世の時代からである。この動きはガリカニズムと呼ばれる。ルイ14世はこれを発展させた。

 国内的には、ルイはジャンセニズムを抑圧した。ジャンセニズムはヤンセンという神学者に由来する宗派だった。『パンセ』のパスカルがジャンセニズム主義者だった。しかし、ルイの抑圧政策は功を奏さなかった。

フォンテヌブローの勅令:ユグノーへの迫害

 さらに、ルイは国内のプロテスタントを抑圧した。16世紀のフランスでは、カトリックとカルヴァン派プロテスタントによる悲惨な宗教戦争が起こった。16世紀末に、アンリ4世によってナントの勅令がだされた。これによって宗教戦争が終わり、カルヴァン派のプロテスタントにも信仰の実践が認められた。

 だが、この寛容政策は次第に有名無実化していった。ついに、1685年、ルイ14世はフォンテヌブローの勅令を出し、ナントの勅令を廃止した。プロテスタントへの弾圧を強めた。

 その結果、20万人ほどのプロテスタントが亡命した。これは当時のフランスのプロテスタントの25%ほどになる。その多くがオランダに亡命した。国内外の多くの諸侯がこの政策ゆえにルイに反発するようになった。

フランスで弾圧されるユグノー

ルイ14世のフランスで弾圧されるユグノー 利用条件はウェブサイトで確認
当時公刊されたもの

 経済と戦争:コルベールの重商主義

 経済面では、ルイはまず、コルベールを財務総監に任命した。彼らが生きた時代は「17世紀の危機」と呼ばれるように、天候不順に見舞われた。食糧などを十分に生産できず、疫病が流行し、社会や経済に大きなダメージを与えた。そ

 のような中で、コルベールは国内産業を育成し、海外貿易で利益をあげるよう政策を施し、一定の成功を収めた。海軍を増強した。当時ヨーロッパの強国だったオランダがモデルであり、ライバルだった。

 ルイ14世は北方に領土を拡張すべく、スペイン領のフランドル地方やオランダとの戦争を開始した。その根拠として、上述の政略結婚を利用した。妻マリア・テレサの結婚持参金が支払われていない以上、妻の王位継承権の放棄は無効であると主張したのである。

 1668年には、フランドル地方の一部の征服に成功した。また、オランダとの戦争にも勝利した。1678年のネイメーヘンの和約で、フランシュ・コンテやアルトワなどを獲得した。だが、莫大な戦費が重荷となり、コルベールの政策を頓挫させた。

 海洋進出の代わりに、ルイはヨーロッパ大陸での勢力拡大を目指した。ル・テリエらの主導のもとで、陸軍の強化を図った。ルイの拡張政策が周辺国を刺激した。神聖ローマ皇帝やイギリスなどが同盟を構築し始めた。

拡張政策の頓挫:アウグスブルク同盟戦争

 1688年には、ついにアウグスブルク同盟が結成され、アウクスブルク同盟戦争が開始された。フランスとその他のヨーロッパ諸国の戦争である。上述のフランスのプロテスタントにたいする迫害なども戦争の一因となった。

 この戦争により、ルイ14世の大陸での膨張政策は頓挫し、野心は抑制された。1697年のリスウィック和約により、フランスの国境は 1679年の時点に戻された。

 最後に、スペイン継承戦争(1701ー1714)である。上述のルイ14世とマリア・テレサの政略結婚により、孫のフィリップがスペイン国王フェリペ5世に即位した。だがフランスとスペインという2つの大国が結合するのを阻止すべく、イギリスやオランダなどがフランスとスペインに戦争を仕掛けた。これがスペイン継承戦争である。これは1713年のユトレヒト条約で終結した。

 ユトレヒト条約で、フランスに対するイギリスの優位が強まった。イギリスはスペイン植民地への奴隷供給権(アシエント)を得るなどして、海洋帝国として発展することになる。

絶対王政は確立された?

 これまでみてきたように、ルイ14世の時代はながらくフランス絶対王政の確立期とみなされてきた。だが、この時期においてさえも、フランスは絶対王政とはいいがたい側面をもっていたともいわれている。

 たとえば、近年の研究では、ルイ14世が圧倒的な権力を背景として貴族やブルジョワらを圧伏させたのではなく、彼らとはむしろ相互依存的であり、彼らとの交渉を介して統治するシステムを構築したと論じられている。
 この見方においては、親族ネットワークや恩顧関係(クライエンテリズム)のような人的ネットワークが着目されてきた。当時のフランス社会では、親族ネットワークや恩顧関係はこの社会を上から下まで貫いていた。

 一つの家門に貴族やブルジョワ、労働者の人々が属していたのである。そのため、王権がこれらの既存のネットワークをうまく利用すれば、フランス社会全体を垂直的に統合することができる。地方エリートを王権と結び合わせ、政治的な安定を確保できる。
 王権はこれらの人脈を巧みに利用することでフランス社会をうまく統治することができた。上から力づくで貴族やブルジョワなどを言いなりにさせたわけではなかった。
 よって、17世紀は君主が中央において上から権力を振るうという従来の絶対主義の時代というイメージは、この新たな見方によって挑戦を受けている。もっとも、従来の絶対王政の見方が完全に否定されるわけではないが。

 フランス絶対王政の衰退へ

 ルイ14世の晩年、フランスは度重なる戦争や内乱、天候不順などで、徐々に疲弊していった。1715年、ルイはヴェルサイユ宮殿で没した。ルイはその長い治世のうち、31年間は戦争していた。その動機の大半は経済的なものだった。毎年のうち最低でも2ヶ月は軍事行動を行っていた。その結果、フランスの領土は拡大した。だが、経済的に疲弊した。

ルイ14世とマリア・テレサの関係

 二人の間には6人の子供が生まれた。だが、成人まで生き延びたのはドーファンのルイだけだった。彼はのちにバイエルン選帝侯の娘と結婚した。ルイ14世は他に多くの愛人をもった。愛人たちは総勢で10人以上の子供をうんだ。
 マリア・テレサはルイ14世の政治的決定に重要な影響力をもてなかった。たとえば、1665年のフランスとスペインの戦いである。当時、ポルトガルがスペインの支配下にあったが、再独立のためにスペインと戦っていた。

 ルイ14世はポルトガルを支援すべくスペインと戦争を開始した。スペインはマリア・テレサの父フェリペ4世の最晩年だった。結局、スペインが敗北し、ポルトガルが分離独立した。マリア・テレサはこの一件でなにか実現することができなかった。

 また、上述のユグノーへの迫害にかんしても、マリア・テレサ自身は反対だった。しかし、この点でもルイに影響力を及ぼすことはできなかった。反対に、ルイ14世はマリアにたいして、跡継ぎ問題だけが彼女の唯一の欠点だと考えたようである。

 1715年、ルイ14世は病没した。

ルイ16世との関係?

 ルイ14世はときどきルイ16世と混同されることがあるようだ。ルイ14世はこれまでみてきたように、フランス絶対王政の絶頂期の王である。これにたいし、ルイ16世はフランス革命で処刑されることになるので、フランス絶対王政の終焉期の王である。マリー・アントワネットはルイ14世の王妃ではなく、16世の王妃である。

→ルイ16世の記事はこちらへ。

 ルイ14世と縁のある場所:ヴェルサイユ宮殿

 ヴェルサイユ宮殿の建物はもともと、フランス王家が狩猟をするときの館として建造させたものだった。王宮としては、すでにパリにチュイルリー宮殿があた。これはカトリーヌ・ド・メディシスが建造させた。ヴェルサイユ宮殿を増改築させて、これを王宮にしたのは、ルイ14世である。彼の死後も増築されていった。

 ヴェルサイユ宮殿には様々な優れた絵画が飾られている。ヴェルサイユ宮殿を描いたものも多く展示されており、時代による変化を絵画によって知ることもできる。ヴェルサイユ宮殿自体の内装も凝っており、古典古代などのモチーフを存分に愉しむことができる。

 ヴェルサイユ宮殿自体もそれなりに広いが、付属の庭園の広さは圧巻である。宮殿に住む王侯貴族に仕えるための給仕などが宮殿のすぐそばに村をつくった。これらの用地が後に庭園として整備された。そのため、その敷地は広大である。庭園内移動のためのミニバスのようなものも走っている。もちろん、広大なだけではなく、庭園の造形も凝っている。

 ルイ14世と縁のある人物

●マザラン:ルイ14世の宰相。同じく宰相だったリシュリューとともに、ルイ14世の絶対王政を準備した。意外にも、もともとはイタリアの聖職者だった人物である。では、どのようにしてフランスに到来し、その宰相にまで昇りつめたのだろうか。

●コルベール:フランスの政治家。フランス国王ルイ14世が絶対王政を確立するのを主に重商主義的な経済政策で支えた。海軍の増強や文化の発展にも寄与した。

●ルイ15世:ルイ14世の曾孫であり、次のフランス国王。ルイ14世の黄金時代が過ぎ去り、ルイ15世のフランスはどのような時代を迎えたか。

ルイ14世の肖像画

ルイ14世 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

千葉治男『ルイ14世 : フランス絶対王政の虚実』清水書院, 2018
佐々木真『ルイ14世期の戦争と芸術 : 生みだされる王権のイメージ』作品社, 2016

Philip Mansel, King of the world : the life of Louis XIV, Penguin, 2022

Hall Bjørnstad, The dream of absolutism : Louis XIV and the logic of modernity, University of Chicago Press, 2021

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