支倉常長は17世紀初頭の慶長遣欧使節でヨーロッパに派遣された仙台藩士(1571―1622)。伊達政宗によって、スペイン領メキシコとの貿易のために、サン・フアン・バウティスタ号でスペインとローマに派遣された。太平洋を無事に横断に、スペインとローマにたどり着くことができた。だが、そこでは幾多の困難が待ち構えていた・・・。
慶長遣欧使節の背景
16世紀後半、ヨーロッパと日本の南蛮貿易は主に九州で行われていた。16世紀末に近づくと、徳川家康がヨーロッパ人との貿易を関東で行おうと画策し始めた。17世紀初頭、仙台伊達藩もまた、スペインとの貿易を画策した。
南蛮貿易とキリスト教の宣教
16世紀末、日本ではカトリックの諸々の修道会が宣教活動での成果を競っていた。16世紀なかばのフランシスコ・ザビエルの来日以降、彼のイエズス会が1590年代まで独占的に日本宣教を担っていた。だが、16世紀末には、フランシスコ会やドミニコ会なども日本宣教に本格的に参入し始めた。
長らく、南蛮貿易はキリスト教の宣教と深く結びついていた。たとえば、1587年、秀吉が宣教師を追い出して南蛮貿易だけを継続しようと試みた。
だが、宣教師が南蛮貿易に不可欠だったので、秀吉は宣教師の追放を諦めたほどだった。他の戦国大名もまた貿易と宣教活動の密接な関係を認識した。
ソテロの来日
1603年、フランシスコ会のルイス・ソテロが日本宣教に参加した。このソテロが遣欧使節の鍵を握ることになる。ソテロはイエズス会と同様に、宣教と貿易をセットにして推進しようと考えていた。
1611年、伊達政宗はスペインとの貿易を望んでいたため、ソテロを招いた。彼に自領での宣教活動を許可した。
その後、ソテロは江戸に移った。1612年から、徳川幕府はついにキリスト教に対して本格的な禁教令を出した。これ以降、キリスト教の取り締まりと弾圧は本格化していく。
だが、1613年、ソテロは江戸で宣教活動したため、幕府に捕まった。ソテロが処刑されずにすんだのは、江戸にいた政宗が救ったからだった。
政宗への遣欧使節の計画の提案
これがきっかけとなって、ソテロは政宗に遣欧使節の派遣を打診するようになった。ソテロは仙台に宣教の確固たる礎を築こうと志した。
同時に、ローマ教皇庁にフランシスコ会の日本での成果をアピールし、日本での勢力拡大を図ろうとした。そこで、ソテロは伊達政宗にスペイン領メキシコとの貿易を提案した。
政宗はこの案に賛同した。その背景として、1610年には、家康の主導で、浦賀でスペイン人が西洋式の船を建造し、日本人を乗せてメキシコにすでに到来していた。東アジアから太平洋を横断してメキシコに到達するルートである。
このようなルートは16世紀後半にはすでに発見されていた。定期便も就航していた。1610年に日本からもこのルートが利用可能だと判明したことになる。
そこで、政宗はスペインとローマに使節を派遣することになった。貿易という経済的目的以外にも、政治的目的もあったかもしれない。たとえば、政宗がスペインと協力して幕府を転覆させようとしたという説もある。
当初、政宗はメキシコとの貿易を目的としていたので、メキシコに使節を派遣すればよかろうと考えていた。だが、ソテロはメキシコがスペイン王の植民地であるので、スペインへの使節派遣を提言した。
さらに、カトリック教会の総本山のローマの追加も提言した。政宗はこれらを受け入れ、使節をスペインとローマに派遣することを決めた。
慶長遣欧使節の出発:サン・フアン・バウティスタ号で
政宗は太平洋横断のために、ガレオン船のサン・フアン・バウティスタ号を建造させた。スペイン人の監督下で日本人がこれをつくった。この 造船には、イギリスの商人で家康の顧問だったウィリアム・アダムズや幕府の重臣も協力した。
1613年、政宗は支倉常長に公式の書状をもたせ、ソテロとともにヨーロッパへ派遣した。220人ほどが乗船し、日本人は180人ほどだった。伊達藩と幕府からそれぞれ10名ほどの侍が乗船した。
メキシコへ
支倉の一行は無事に太平洋を横断し、1614年、メキシコに到着した。一行の人数が多すぎたので、彼らの多くはメキシコに滞在することを余儀なくされた。メキシコでは80人ほどがキリスト教に改宗した。
支倉ら一部の人々は40人ほどがさらに大西洋を渡り、スペインに向かった。なお、メキシコ在住の人々の日記に慶長遣欧使節の様子が記されたようである。
スペインへ
スペインでは、支倉の一行はまずセビーリャに向かった。当時は、セビーリャがスペイン領アメリカとスペイン本国をつなぐ玄関口として指定されていたためである。
ソテロがセビーリャの名家出身だったのも功を奏し、セビーリャでは盛大な歓迎行事が行われた。セビーリャ市に政宗の手紙が渡された。
その後、支倉の一行は近隣のコルドバへ、そしてトレドを経由してマドリードについた。当時、マドリードはすでにスペインの首都であった。
当時のスペインは黄金時代を謳歌していた。たとえば、この時期のマドリードには『ドン・キホーテ』で有名なセルバンテスが住んでいた。
マドリードにて:フェリペ3世に謁見
支倉使節はスペインで必ずしも順風満帆だったわけではなかった。その背景として、日本でのキリスト教に対する徳川幕府の本格的な弾圧のニュースはすでにスペインに届いていた。この弾圧をスペイン王権は問題視した。
なぜなら、フェリペ3世は敬虔な王として知られていたからである。また、彼の有名な父のフェリペ2世もまたカトリックの守護者を自認していた。そのため、ソテロが考えていたように、スペイン王権もまた貿易と宣教をセットで考えていたのである。
そのため、日本との通交について、宮廷では疑義が差し挟まれた。さらに、そもそも支倉使節の信憑性すら疑う者もいた。支倉使節はマドリードの後にローマで教皇に謁見しようとしていたが、それに反対する者もいた。
1615年、支倉常長は当時のスペイン宰相のレルマ公に応対された。さらに、スペイン王のフェリペ3世の謁見も許され、政宗の書状を渡した。
フェリペらは支倉の人柄に感銘を受けたようである。支倉はマドリードの女子修道院で、国王臨席のもとで、洗礼を受けた。フェリペとフランシスコ(ザビエル)の名前を洗礼名とした。レルマ公がその代父をつとめた。
ローマへ:教皇との謁見
スペイン王室の支援を受けて、支倉の一行はローマへ向かった。1615年、彼らは教皇パウルス5世に謁見した。日本人の使節が教皇に謁見するのは天正遣欧少年使節以来であり、約30年ぶりだった。
伊達政宗の書状を届け、返礼品を受けとった。ローマ市民として認められ、叙爵もされた。また、支倉はイタリアの諸都市を歴訪した。それらの地で将来の貿易のための交渉を行った。
貿易の成否
その頃、ソテロは伊達藩との貿易を認めてもらうためにスペインで交渉を行っていた。交渉の条件として、上述のように、日本宣教が重要だった。スペイン王権は伊達藩との貿易は日本宣教に資するならば認められると考えていた。
1617年、日本からの新たな情報が入ってきた。日本でのキリスト教への弾圧は強まる一方だ、と。他方、ソテロは日本宣教の状況をかなり楽観視して伝えていた。
そのため、スペイン王権はソテロにたいして疑念を強めた。結局、フェリペ3世は日本宣教の現状について否定的な意見を持った。伊達藩との貿易を許可しなかった。
帰国と別れ
支倉常長の一行は帰路でいろいろな困難にあった。スペイン王室は彼を冷遇した。旅費などの関係で、支倉の一行は30人ほどの日本人をスペインに残さざるをえなくなった。
結果的にみれば、この時代に一部の日本人がスペインに移住したことになる。彼らはハポン村を形成した。ハポン(Japon)は日本の意味である。
1617年、支倉自身はメキシコに移動した。1618年、メキシコからマニラに移動した。マニラでサン・フアン・バウティスタ号をスペインに払い下げた。
上述の当時の定期便はメキシコとフィリピンを結ぶルートだった。支倉はそこに2年間滞在した後、1620年に仙台に到着した。
政宗に報告を行い、返礼品などを渡した。貿易交渉の失敗を受けて、仙台藩でもキリスト教が本格的に禁止された。支倉は1622年に病没した。
支倉常長の旅行・観光地:宮城県の仙台市博物館
支倉常長の一行が慶長遣欧使節の旅路でヨーロッパから持ち帰った品々は、現在、仙台市博物館に所蔵されている。
展示品の中には、たとえば、ローマの市民権証書が含まれる。これは、当時のローマ市が支倉常長に市民権を付与したことを証しする文書である。もっとも、支倉の日本帰国は確実であったので、名誉市民というべきものであろう。
ほかにも、支倉常長自身の肖像画も含まれる。これはおそらくローマ滞在中に描かれたものであり、油絵である。
支倉がヨーロッパに滞在していた頃には、日本のキリスト教会の始祖フランシスコ・ザビエルの油絵での肖像画も描かれ始めていた。とはいえ、日本宣教関連で日本人の油絵が描かれた例としては最初期のものといえる。
なお、ヨーロッパで日本人の肖像画がつくられた例は、1580年代に天正遣欧少年使節が先に存在する。
ローマ市民権証書も支倉常長の肖像画もユネスコの記録遺産に登録されている。
支倉常長と縁のある人物
●フェリペ3世:スペインの宮廷で支倉使節を迎え入れた。支倉の礼節ある振る舞いに感心したそうだ。支倉の改宗を執り行った。
支倉常長の肖像画
当時のヨーロッパで描かれた支倉常長の肖像画
おすすめ参考文献
太田尚樹『支倉常長遣欧使節もうひとつの遺産 : その旅路と日本 (ハポン) 姓スペイン人たち』山川出版社, 2013
田中英道『支倉常長 : 武士、ローマを行進す』ミネルヴァ書房, 2007
五野井隆史『支倉常長』吉川弘文館, 2003