ギョーム・ファレルは16世紀前半にスイスで活躍した宗教改革者(1489ー1565)。フランス生まれだったが、フランスでの宗教改革への迫害を避けて、スイスへ移った。ジュネーヴにカルヴァンを引き込むなどして、スイスの宗教改革を主導した。
ファレル(Guillaume Farel)の生涯
ファレルはフランスのドーフィネに生まれた。パリ大学でルフェーブル・デタープルに師事した。ルフェーブルはフランス宗教改革の先駆とも目される人文主義者である。
ルターが1517年にドイツで宗教改革を開始した頃、フランスでも福音主義的な宗教運動が起こり始めていた。それはフランス人文主義者の間で芽生えた。その中心にルフェーブルがいた。
彼は1523年に新約聖書を仏語に、1524年には旧約聖書の詩篇を仏語に訳した。聖書を俗語に翻訳することは聖書主義を標榜する福音主義からすれば非常に重要なことだった。さらに、ルフェーブルの影響はフランス宮廷にも及んだほどだった。ファレルはこのルフェーブルから人文学を学んだだけでなく、教会改革の精神をも吸収した。
その後、ファレルはパリのカルディナル・ルモワーヌ学院で哲学などを教えた。その学院長にも就任した。
この頃、ルフェーブル以外にも、フランスの宗教改革を初期に推進していた人たちがいた。その中に、モーの司教のギョーム・ブリソンヌがいた。彼はファレルを教区の説教師に任命した。かくして、ファレルは説教師としても活躍することになる。
スイス宗教改革へ
1523年、ファレルはパリで迫害を恐れるようになり、スイスのバーゼルに移った。だが、ファレルはバーゼルでは、すでに有名になっていた人文主義者のエラスムスと論争することになった。その結果、そこから追放されることになった。
その後、ファレルはモンベリアル、ストラスブール、ベルンなどを遍歴して、説教した。その後、1526−29年、スイスのフランス語圏のエーグルに滞在した。この時期、スイスではツヴィングリなどが宗教改革運動を促進していた。カトリックとプロテスタントの対立も深まっていった。同時に、ツヴィングリはルター派との協力関係を模索していた。このように、スイスでは様々な宗派の活動が活発になっていた。
ジュネーヴの改革へ
1530年に、ファレルはヌーシャテルへ、さらに1532年にはジュネーヴへ移動し、宗教改革の試みを開始した。ジュネーブでは1520年代から福音主義の動きがみられた。だがそのまま福音主義の都市になったわけではなかった。むしろカッペル戦争によって、福音主義にたいして否定的な態度をとった。そのような時期にファレルはジュネーヴの宗教改革を目指した。
ジュネーヴはすぐにファレルの宗教改革を受け入れたわけではなかった。ファレルと他の福音主義の宣教師はジュネーヴの聖職者たちと会合した。だが、力づくで追放され、戻ってくれば死刑に処すとされた。それでもファレルは弟子の宣教師をジュネーヴに送り込んだ。弟子は説教師として人気が出たため、追放された。ジュネーヴ市議会は聖職者たちに福音主義の説教を禁止した。さらに、カトリックの弁護のためにドミニコ会士を呼び寄せた。
ファレルはこのドミニコ会士との宗論を行いたいとジュネーヴ市議会に要望した。だが、ドミニコ会士がこれを拒否した。この頃、ジュネーヴに政治的影響力を保持していた司教とジュネーヴ市の政治的対立が強まった。そのため、ジュネーヴでは福音派に好意的な状況がうまれてきた。1534年3月、ファレルはジュネーヴで説教を行った。宗教儀式も執り行った。
活動の成功へ
この頃、司教とサヴォワ公とジュネーブの対立は戦争に発展した。前者はカトリックを支持し、司教は200人ほどのジュネーブ市民を異端として断罪しようとした。このような中で、ファレルらはジュネーヴ市内に留まって、市民を鼓舞し続けた。1534年末にはジュネーヴ市民はカトリックよりも福音主義を受け入れるようになっていった。その頃、ファレルはフランス語での最初の福音主義の信仰告白書を公刊した。上述のドミニコ会士との宗論も行った。
1535年の夏には、ファレルらの福音主義の牧師たちはジュネーヴで大胆に説教を行った。彼らは市議会や市民に対し、宗教改革を受け入れるよう説得した。福音主義の牧師がジュネーヴ市によって雇われるようになり、説教は福音主義のものになった。同年8月、ジュネーヴでカトリックのミサが禁止されるようになった。これをきっかけに、サヴォワ公が最後の攻撃をジュネーヴに仕掛けた。周辺都市の助けにより、ジュネーヴはこれを追い返した。1536年5月には、ジュネーヴ市は福音主義を明確に受け入れた。
カルヴァンとの出会い
1536年7月、カルヴァンがジュネーヴに旅行で訪れていた。ファレルはカルヴァンを説得し、ともにジュネーヴやローザンヌの宗教改革を推進した。同年10月には、ファレルはローザンヌでの宗論に参加した。その後もジュネーヴの主な説教師として活動した。
だが、ジュネーヴ市民はファレルやカルヴァンの信仰を確固として受け入れたわけではなかった。1538年、彼ら二人との対立が深まりつつあった。ファレルとカルヴァンはそのような者たちへの聖餐の儀式を拒否するに至った。その結果、ふたりともジュネーヴから追い出されることになった。
後年
ファレルはヌーシャテルに移り、没するまでこの地を拠点とした。とはいえ、ジュネーヴやベルンなどスイス各地を頻繁に訪れ、説教や司牧活動を行った。その影響力は大きく、1540年代にはスイスの福音主義者はファレル主義者と呼ばれたほどだった。
ファレルはカトリックによる図像の利用や聖遺物への批判などを通して、スイスの宗教改革をなしとげていった。
☆ファレルのスイス旅行・観光地:ジュネーヴ旧市街
ファレルに関連する歴史情緒ある観光地としては、スイスのジュネーブ旧市街がおすすめだ。ジュネーブ旧市街にあるサン・ピエール大聖堂がジュネーヴの宗教改革の発祥の地といえる。
この大聖堂の裏側には、国際宗教改革博物館がある。ファレルだけでなく、カルヴァンやルター、イギリスのエリザベス1世なども扱っている。宗教改革の歴史史料の現物をいろいろ見てみたい人には、うってつけだ。
さらに、ファレルの姿を見てみたいという人には、宗教改革記念碑を訪れるとよい。これはジュネーヴ大学のキャンパス内の公園(自由に入れる)に、1917年に設置されたものだ。カルヴァンやファレルなど、四人の彫像から構成された記念碑。
ファレルと縁のある人物
●カルヴァン:ファレルがジュネーヴの宗教改革に導いた神学者。スイスとフランスの宗教改革で決定的な役割を演じた。
ファレルの肖像画
おすすめ参考文献
出村彰『スイス宗教改革史研究』日本キリスト教団出版局, 2004
Jon Balserak, A companion to the Reformation in Geneva, Brill, 2021
Jason Zuidema, Early French reform : the theology and spirituality of Guillaume Farel, Ashgate, 2011