ジョン・ノックス:スコットランド宗教改革

 ジョン・ノックスは16世紀にスコットランドで活躍した神学者(1514ー1572)。スコットランドに宗教改革を導入した主要人物として知られる。宗教的理由などでのイングランドやジュネーヴなどでの長い亡命期間を経て祖国に戻った。女王メアリーと対立しながら、ブキャナンなどとともに、スコットランドで宗教改革を推し進めた。

ノックス(John Knox)の生涯

 ノックスはスコットランドのハディングトン付近で農民の家に生まれた。セント・アンドリューズ大学で学んだ。その後、公証人となり、カトリックの聖職者になった。

 宗教改革運動へ

 1545年、ノックスは30代のはじめに、ジョージ・ウィシャートに出会った。ウィシャートはスイスで宗教改革運動に大きな影響を受けたプロテスタントだった。その後、スコットランドで宣教活動を行っていた。ノックスは彼に感化され、カトリックからプロテスタントに転向した。

 1546年、ウィシャートは異端の罪で捕らえられ、エディンバラで火刑に処された。これを受けて、ノックスは自らがスコットランドの宗教改革を主導しようと決心した。そこで、1547年、セント・アンドリューズ城の説教者として活動した。だが、まもなく捕らえられた。罰として、二年間のガレー船での労働を強いられた。

 イングランドでの活動

 釈放された後、ノックスはイギリス(イングランド)へ移った。イギリスはヘンリー8世の時代にカトリック教会を離脱し、英国教会を打ち立てていた。様々な面でまだまだカトリック教会に近かったが、英国教会制度の整備を進めていた。1549年には、息子がエドワード6世として国王に即位していた。ノックスは歓待され、宮廷で牧師として活動した。

 だが、エドワードが没すると、イギリスの政情は大きく変わった。ヘンリー8世の娘がメアリー1世として即位した。メアリーはヘンリー8世の頃から制定され整備されてきた英国教会の法律や制度を廃止した。

 のちのスペイン王で、カトリックの守護者を自認するフェリペ2世と結婚した。ローマ教皇庁の赦しをえて、イギリスをカトリック教会に引き戻した。プロテスタントへの弾圧を強めた。そのため、ノックスは迫害を避けるべく、大陸へと逃れた。

 ジュネーヴ滞在

 ノックスは亡命地を転々とし、スイスのジュネーヴに到達した。当時のジュネーヴはプロテスタントの国際都市として有名だった。というのも、主要な宗教改革者として知られるカルヴァンがこの都市で神権政治を行っていたためである。この頃には、ジュネーヴは様々な地域で迫害されたプロテスタントの避難地となっていた。
 ノックスはジュネーヴでカルヴァンに会い、交流をもった。様々な影響を受け、改革派の実践や理論を学んだ。同時に、スコットランドのカトリック王権を打倒しようと考え、それを正当化するための理論を準備し始めた。

『女性の怪奇な統治にたいする最初のラッパの一鳴り』

 さらに、ノックスはイングランドのメアリー1世の統治に対する批判を展開した。『女性の怪奇な統治にたいする最初のラッパの一鳴り』である。そこでは、ノックスは西欧中世の女性嫌いの伝統に基づいて、メアリー1世という女性による統治を痛罵している。
 たとえば、ノックスはアリストテレス理論などを参照しながら、女性が本質的に不安定であり、したがって政治的権威や司法的権威を持つべきでないと論じた。

 さらに、聖書の創世記などを利用しながら、神が女性にたいして、夫だけでなく男性一般に服従することを望んでおられると論じた。さらに、女性を統治者に選んだ貴族や共同体は、その女性を退位させることによって過ちを正す義務があると論じた。
 ちなみに、本書はメアリ1世の次のイングランド女王エリザベス1世の不興を買うことになる。

 スコットランドの宗教戦争と宗教改革

 この頃、フランスがスコットランドの併合を本格化させようとした。その背景として、スコットランド女王のメアリーはフランス王アンリ2世と結婚していた。フランスは長らく神聖ローマ皇帝でスペイン王でもあるカール5世と戦争をしていた。カール5世はドイツ宗教改革を止めようとしたが失敗し、退位した。
 1559年、新たなスペイン王フェリペ2世はフランスと平和条約を結び、戦争を終わらせた。フランスは余力がうまれたので、かねてから考えていたスコットランドの併合に移った。

 それまで、スコットランド王権はプロテスタントにたいして宥和政策をとってきた。だが、フランスがカルヴァン派などのプロテスタントに厳しい態度をとっていたので、スコットランドでも同様に厳しい政策がとられることになった。そのため、スコットランドで王権とプロテスタント諸侯との対立が始まった。

 同年、ノックスはスコットランドに帰国した。ノックスは帰国以前から、スコットランドの貴族や民衆にたいしてカトリック教会に反対し改革運動に参加するよう促していた(その背景としては、ノックス自身がスコットランドのカトリック教会から異端として断罪されていたことが挙げられる)。

 このタイミングでノックスはついに帰国し、真の宗教を保護するという名目で、会衆軍の召集を訴えた。かくして、プロテスタント諸侯などとともに、スコットランド宗教戦争に加わった。
 1560年、同地の宗教改革が本格的に開始した。ノックスはエディンバラで、セント・ジャイルズ教会の牧師に就任した。スコットランドの改革派教会の制度づくりに貢献した。イングランドの援助をえて、プロテスタント諸侯がこの戦いに勝利した。

 スコットランドで宗教改革が達成された。イングランドが王権による上からの宗教改革であったのにたいして、スコットランドは下からの宗教改革だと評されている。

 長老主義の改革派教会の整備へ

 1561年、スコットランド女王のメアリー・スチュワートが嫁ぎ先のフランスから帰ってきた。彼女はカトリックを護持した。そこで、ノックスらと対立した。宗教とは別の要因も加わって、メアリーとプロテスタント諸侯の対立が激化していった。ついに、再び改革派諸侯とカトリック王権の戦争に至った。前者が勝利し、メアリーはイギリスへ亡命した。
 その後は改革派教会がスコットランドで根を下ろすことになる。ノックスはジョージブキャナンなどとともに、その初期の主な立役者の一人として活躍した。

 ノックスと縁のある人物

●メアリー・スチュワート:スコットランド女王。プロテスタント諸侯と対立し、内戦の末に、イングランドへ亡命した。この内戦を女王の視点でみると、どうみえるのだろうか。

●ジョージ・ブキャナン:スコットランドの人文学者で詩人スコットランドでの宗教改革を先導した一人貴族やプロテスタント教会が女王メアリーを廃位するのを正当化した。メアリーがイングランドに亡命した後、ブキャナンは新たな王のジェイムズ6世の家庭教師をつとめた。

https://rekishi-to-monogatari.net/gebu

●ジャン・カルヴァン:フランスの神学者で、宗教改革の代表的人物として知られる。ジュネーヴで宗教改革を成功させ、神権政治を行った。ノックスなどスコットランドのプロテスタントに大きな影響を与えた人物。カルヴァン自身はどのような思想を抱き、どのような人生を歩んだのか。

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https://rekishi-to-monogatari.net/eliz4

ノックスの肖像画

ジョン・ノックス 利用条件はウェブサイトで確認

ノックスの主な著作・作品

『誠実な忠告』(1554)
『女性の怪奇な統治にたいする最初のラッパの一鳴り』(1558)
『スコットランド宗教改革史』(1584)

おすすめ参考文献

佐藤猛郎, 岩田託子, 富田理恵編『図説スコットランド』河出書房新社, 2005

Jane Dawson, John Knox, Yale University Press, 2015

Henry R Sefton, John Knox : an account of the development of his spirituality, Saint Andrew Press, 1993

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