フランチェスコ・ペトラルカはイタリアの詩人(1304ー1374)。古典古代を研究し、多くのラテン語の作品を生み出した。イタリア語でも、ラウラとの出会いをきっかけに、『叙情詩集』を世に送りだした。これがヨーロッパで極めて広範な影響力を誇った。ラテン語研究でも功績をあげた。ダンテらとともに、イタリア・ルネサンスの先駆者として知られる。
ペトラルカ(Francesco Petrarca)の生涯
ペトラルカはトスカナ地方で公証人の家庭に生まれた。幼い頃に、教皇庁のあったフランスのアヴィニョンの近くに移住した。
ペトラルカは父の意向により、法学を学ぶことになった。モンペリエやボローニャに留学した。だが、1326年、父が没すると、ペトラルカは法律の勉強をやめ、アヴィニョンへ戻った。
詩人としての開花
そもそも、ペトラルカは法律の勉強よりも、古典古代の文学を好んでいた。法律を勉強していた時期にも、古代ローマのキケロやウェルギリウスなどの著作を愛好した。これらはラテン語で書かれていた。リヴィウスの歴史の写本を収集した。このような古代の写本収集がルネサンスの進展への大きな貢献となる。
ペトラルカはリウィウスやポリュビオスの著作にも精通し、ローマの歴史に精通するようになった。それらの本の写本を集めつつ、その内容に注釈をつけるようになった。『卓越した人々について』という著作を制作した。リウィウスやスエトニウスに依拠地して、著名な人々の正しい情報を記そうとした著作である。
さらに、当時のイタリア語の詩を読むようになり、古典古代以外の文学にも興味を抱くようになっていた。13世紀のイタリアでは、ラテン語という古典古代の言語ではなくイタリア語という俗語の詩が試みに制作されるようになった。
13世紀前半からこのような文学の動向が始まり、13世紀後半ではダンテがその代表的な詩人として活躍していた。ダンテについては、後述のように、ペトラルカはボッカチオとの手紙で述べている。
ラウラとの出会い
そのような中で、上述のようにアヴィニョンに帰った。その翌年、ペトラルカは運命的な出会いをした。クララ教会で、ラウラという女性に恋をしたのだった。そこから、彼女への愛で溢れた『叙情詩集』が誕生することになる。
『アフリカ』
ペトラルカが詩人として本格的に活動し始めるのは、枢機卿のコロンナ家が彼のパトロンになってからだった。その庇護のもとで、ペトラルカは古典研究を進めた。
1338年には、ペトラルカは『アフリカ』を制作し始めた。これは古代ローマの将軍スキピオ・アフリカヌスにかんする叙事詩である。当時は特定の英雄を題材とした叙事詩が多く制作されていた。本書はウェルギリウスの『アエネイス』を模範にしようとした。
だが、その題材として古典古代の人物を選ぶ例はまだまだ少なかった。この点で、ペトラルカはまさに人文主義の詩人だったといえる。ただし、『アフリカ』は結局、未完成に終わった。
それでも、ペトラルカは名声を得るようになった。 1341年には、ペトラルカはローマで桂冠詩人の称号を得るに至った。1342年から、イタリア語で『叙情詩集』を制作し始めた。
ボッカチオとの交わり:ダンテの影響
ペトラルカはいまや引く手あまたの存在になった。その後はパルマ、ミラノ、パドヴァ、ヴェネツィアなどに移り住んだ。
1350年、ペトラルカはボッカチオと出会った。当時、ボッカチオはフィレンツェ政府に公式の任務でつとめていた。その一環で、ペトラルカをフィレンツェの自宅に招待した。さらに、翌年には、ペトラルカのためにフィレンツェ大学の教授職を提供しようとした。だが、ペトラルカはこれを固辞し、ミラノに移った。
それでも、両者は次第に親しく交流をもつようになった。両者は書簡で交流を続けた。そこでは、たとえば、ペトラルカはボッカチオにたいし、かつてはダンテの著作を避けていたと述べている。知らず知らずのうちにダンテの影響を受けるのを恐れたためだった。だが、もはやそのような時期を通り過ぎたとも述べている。
ラテン語研究
没するまでに、ペトラルカは次第にラテン語への関心を深めていった。ペトラルカは古典古代の作品や学識に敬意を示していた。そのうえで、彼はラテン語の学習が古典古代の詩などの芸術の根源であり、あらゆる知識の基礎になると考えた。そのため、ラテン語の研究を進めた。
この研究はラテン語の歴史の研究と結びついた。これらの研究により、ペトラルカは当時の大学や教会で用いられていたのとは異なる新たなラテン語の形成に寄与した。不完全な俗語よりも偉大なラテン語で作品を制作すべきだと考えるようになっていったためである。
実際に、ペトラルカはラテン語で多くの作品を生み出した。『牧歌』のような詩、アウグスティヌスに着想をえた対話篇の『秘密』などである。また、ボッカチオのイタリア語の代表作『デカメロン』の一部をラテン語に翻訳した。
『叙情詩集(カンツォニエーレ)』の完成
とはいえ、上述のように、ペトラルカはイタリア語の『抒情詩集(カンツォニエーレ)』を最晩年まで制作し続けてもいた。その一因は、ラテン語とイタリア語(トスカナ方言)が有益な相互依存関係にあったためである。
これは彼の死の直前の1374年に完成した。そこには、ソネットやカンツォーニのような、当時のイタリアの俗語文学の試みが反映されていた。
この詩集にみられるのは、ラウラへの苦悩に満ちた愛や、自分自身の魂の救済のために彼女への無益で現世的な執着を捨てようとする試み、ペトラルカ自身が敬愛してやまない古代人に匹敵する詩人として認められようとする野心である。 ダンテのベアトリーチェのように、ペトラルカのラウラは最終的には死んでしまう。
残されたペトラルカは、記憶と嘆き、後悔と向き合うことになる。 何度も虚しい欲望と葛藤しては、どうしようもない憧れと自分自身の欠点に何度も戻ってくることになる。
『抒情詩集』の深甚な影響力
『抒情詩集』は西洋の詩集の中でも最も影響力の強いものの一つだと評されている。特に、15世紀以降にその影響力は高まっていき、16世紀にはヨーロッパ全体で『抒情詩集』の模倣がみられるようになる。
15世紀後半のヨーロッパでは、グーテンベルクの印刷革命でも知られるように、活版印刷術の発展がみられた。当時の印刷業者は販売戦略の関係で、よく売れる本だけを選定して印刷本にした。そのため、古典古代の古典書が選ばれやすかった。詩集としては、ウェルギリウスの『アエネーイス』などが選ばれた。
16世紀には、ペトラルカの『抒情詩集』もまた印刷本として公刊された。よって、いわば古典の地位にまで昇格したのである。『抒情詩集』は豪華な小型版だけでなく、より手軽な版も公刊された。後者は持ち運びに便利なタイプであった。本書は大いに普及した。その結果、研究や模倣が容易になった。
『抒情詩集』の詩はペトラルカ風の詩の型を提供した。この詩集の詩は教養ある人々によって書き写され、模倣され、様々な場面において贈りあわれた。16世紀ヨーロッパでは、アマチュアが挨拶状や礼状などの機会に、非常に多くの詩を書いては贈りあったのである。その際に、『抒情詩集』は題材を与え、あるいはモデルとなった。
たとえば、イタリアの宮廷で活躍した女官たちがペトラルカの抒情詩を巧みに利用した。彼女たちは彼の抒情詩を道徳的な考察や夫婦愛、宗教的な献身といったテーマに適応させながら利用したのである。それ以外にも、もちろん、アリオストらの著名な詩人にも影響を与えた。彼らはペトラルカを超えようと努力した。
ルネサンス時代の詩は読むだけではなく、朗唱するものであった。食後や長旅の暇つぶしに、あるいは社交の場で朗読されたり歌われたりした。上述のように『抒情詩集』は手軽な版が登場したので、まさにうってつけだった。そのため、『抒情詩集』は様々な階級に広く浸透した。
その結果、『抒情詩集』は絵画にも影響を与えた。ペトラルカは黄金の髪と白く滑らかな肌を愛した。これは女性の美の基準として広く受け入れられた。ボッティチェッリらの絵画にも反映された。
ペトラルカと縁のある人物
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ペトラルカの肖像画
ペトラルカの主な著作・作品
『アフリカ』 (1341)
『秘密』 (1342-43) ,
『叙情詩集(カンツォニエーレ)』 (1350)
『ある医者に対する嘲罵』(1355)
『孤独な生活について』 (1356)
『無名書簡』(1360)
『牧歌』(1364)
おすすめ参考文献
『ペトラルカ=ボッカッチョ往復書簡』近藤恒一編訳, 岩波書店, 2006
Christopher S. Celenza, The intellectual world of the Italian Renaissance : language, philosophy, and the search for meaning, Cambridge University Press, 2018
Michael Wyatt(ed.), The Cambridge companion to the Italian Renaissance, Cambridge University Press, 2014