マクシミリアン・ロベスピエールはフランスの政治家(1758―1794)。当初は弁護士として活躍した。1789年からのフランス革命の中で、急進的なジャコバン派に属した。ジロンド派を追放して、独裁政治を行った。ダントンらを処刑して、有名な恐怖政治を行った。恐怖政治とはどのようなものだったか、なぜこれに至ったのかなども説明する。マラやダントンとの関係についてもみていく。
マクシミリアン・ロベスピエール(Maximilien Robespierre)の生涯
マクシミリアン・ロベスピエールはフランスのアラスで法律家の家庭に生まれた。早くに母を亡くし、父は失踪した。そのため、ロベスピエールは母方の祖父に育てられた。
ロベスピエールは早くに学才を開花させた。1769年、給費生として、パリのルイ・ル・グラン学院に入った。このころ、ルソーに会い、大きな影響を受けるようになる。1781年、法律の学位をとった。
社会派の善良な弁護士として
その後、ロベスピエールは故郷のアラスに戻り、弁護士になった。すぐに頭角を現した。1782年、アラス司教区の刑事裁判官に任命された。社会派の弁護士として名声を得ていった。
他方、ロベスピエールは学芸にも関心をもった。1783年、アラスでアカデミーに入った。モンテスキューやルソーなどの著作を再読し、絶対王政への批判を展開した。このように、当初ロベスピエールは社会派で立憲主義的な弁護士として活躍した。
フランス革命の勃発
この頃、フランスでは国王ルイ16世の失政などにより、政情不安が増大していた。ルイは財政問題を解決するために、全国三部会の召集を宣言した。
そのタイミングで、1788年、ロベスピエールは『アラス州民に訴える』を公刊し、改革の必要性を訴えた。1789年、彼は三部会の議員に選出された。
ジャコバン・クラブのメンバーに
同年7月、フランス革命が始まった。上述の全国三部会は国民議会に改称され、改革を推進した。もっとも、改革を推進する人々の間でも意見の相違が大きかった。その中で、ロベスピエールは急進的な共和主義のジャコバン・クラブに入った。
フランス革命の支持者の間で、対立が激しくなっていった。ジャコバン・クラブでも内紛が生じ、主要メンバーが離反していった。
そのような中で、ロベスピエールがこれを再建した。普通選挙や、意見や集会の自由、奴隷制や死刑制度の廃止、市民の政治的平等などを訴えた。
ジロンド派との対立:対外戦争と王権をめぐって
1791年、国王ルイ16世や王妃マリー・アントワネットがオーストリアに救援を求めていた。マリー・アントワネットはオーストリア出身だったからである。この要請に応じて、オーストリアやプロイセンがフランスへの干渉戦争を開始しようとしていた。
議会では、これらの国に開戦すべきかで意見が割れた。ジロンド派が開戦を訴えた。ロベスピエールは開戦に否定的な論陣を張った。
だが、1792年4月、フランスはオーストリアとの戦争を開始した。経済的危機が生じた。ロベスピエールは国民公会の議員となった。
革命支持者の間での重要な争点の一つは、フランスのあるべき政体のかたちだった。王権を残しながら、憲法によってそれを拘束する立憲政体を望むのか、それとも王政を廃止して共和制に至るのか。
ロベスピエールのジャコバン派は後者だった。ジャコバン派が勝利し、同年9月、フランスの王権の廃止と共和制の樹立が宣言された。
ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑
ジャコバン派はフランスの王権を廃止するだけでは満足しなかった。国王ルイ16世とマリー・アントワネットの処遇をめぐって、ふたたびジロンド派と対立した。ジロンド派は追放刑が適切だと論じた。
ロベスピエールは下層階級の支持を得ながら、この一件のために革命会議を開催した。投票の結果、ルイは反逆罪の罪で死刑となった。1793年、ふたりともギロチンで処刑された。
ジャコバン独裁へ
1793年には、オーストリアやイギリスそしてプロイセンなどがフランスに激しい攻撃を仕掛け、パリにも迫る勢いだった。ロベスピエールらの山岳派はこの危機的状況を利用して、自身の権力基盤をかためた。
サン・キュロットと呼ばれる下層民の強い支持をえて、1793年5月、ついに国民公会からジロンド派を追放するのに成功した。ジャコバン派(山岳派)が国民公会で独裁を開始した。
恐怖政治へ
一般的に、1793年9月から1794年7月の時期は恐怖政治の時期だと考えられている。だが、この時期と同様のテロルを伴った政治はその前後にもみられたものではある。より広い期間でその内容をみてみよう。
国民公会は1793年3月に革命裁判所を設立した。さらに、4月、危機的状況を抑え込むために、ロベスピエールは公安委員会が必要だと主張した。これを設立し、自らがその主導者となった。
ロベスピエールは危機的な経済状況を乗り切るために、最高価格令を出した。これによって、生活必需品の価格を統制し、バターや塩などの物価の上昇を抑えようとした。富裕層に課税し、貧困層には国の公的扶助を与えた。教育の無償化と義務化を推進した。
このように下層民のための社会政策を実施しようとした。だが、これらの急進的な政策はリヨンやブルターニュ、ボルドーなどで反乱を引き起こした。上述の制度により、少なくとも30万人の容疑者が逮捕され、そのうち17000人が死刑を宣告され処刑された。
ロベスピエールは1793年の憲法を停止した。もしこれを実施すれば、総選挙を行う必要があり、山岳派が多数派の議席を失って、革命に支障がでてしまうと考えたからである、よって、ジャコバン派の革命政府は憲法なしに運営された。彼らは革命政府を緊急の必要性に基づく暫定的なものだと説明していた。
サンソンによるダントンの処刑
さらに、ロベスピエールは報道や集会の自由などを廃止した。反対グループなどの処刑や弾圧を行った。危機的状況で革命を実現するには、正義は迅速で厳しいものでなければならないという信念をもっていた。1794年4月、穏健なダントンを処刑人サンソンによって処刑させた。
ダントンは同じジャコバン派であり、ジャコバン独裁の成立にも寄与した大物政治家だった。上述の公安委員会で最初にトップをつとめた。ロベスピエールは彼の後任となっていた。エベール派からダントンを擁護するなど、協力関係が続いていたが、両者の関係は破局に至ったのである。
その後、1794年6月の法律によって、裁判に大きな変更が生じた。たとえば、裁判の審理前に被告人に尋問するという手順はなくなり、裁判官の判決は無罪か死刑の二択のみと定められた。
同時に、ロベスピエールは対外戦争のために革命軍を増強した。その数は100万人に及ぶほどだった。その一人がナポレオンだった。この対外戦争の中で、ナポレオンはすぐに頭角を表すことになる。
なぜ恐怖政治が起こったのか
ここまで、恐怖政治はフランス革命を内外の反革命の敵から守るために必要ないし適切な手段だったというスタンスで説明してきた。このような説明は19世紀にもすぐにみられるようになった。20世紀になって定着した。
ロベスピエールは恐怖政治をどう考えていたのか。当初、ロベスピエールは恐怖という手段を例外的なものと捉えていたようである。たとえば、ルイ16世の処刑は残酷な例外だと述べていた。
だが、次第に、恐怖を革命における有用な通常の道具だと考えるようになった。その対象は次第に拡大していった。反乱の指導者に限定されていたのが、農民全体にまで拡大された。
その理由としては、伝統的な説明の通り、彼の考える革命を守るには恐怖政治が適切だと判断したためだ。
なお、恐怖政治の原因については別の説明もある。たとえば、革命は恐怖政治を伴うものだというような説明だ。この場合、ロベスピエールの意図にかかわらず、恐怖政治が採用されていたことになるだろう。
他の見方においては、フランス革命の主体が下層民であったので、このような運動は不可避的に恐怖政治に至るとされた。これは革命に反対する保守派の見方である。この場合であっても、ロベスピエールの意図がどうであろうと、恐怖政治に至っていたことになる。
テルミドールのクーデターでの処刑へ:最後の演説
この頃、フランスの経済や戦争の状況が改善され、非常事態の緊迫感も和らいだ。1794年6月には、公安委員会のメンバー間には深い溝ができていた。この頃から、ロベスピエールは公安委員会の夜間部会に出席せず、姿を隠すようになっていた。
1794年7月26日、ロベスピエールは国民公会で演説を行った。その中で、祖国や公共の自由にたいする敵が公安委員会の中に潜んでいるので、これを浄化せねばならないと論じた。これが引き金となった。
翌日、他の公安委員会のメンバーらの支援により、ロベスピエールへのクーデタが起こり、成功した。ロベスピエールらは逮捕され、翌日処刑された。いわゆる、テルミドールのクーデターである。
ロベスピエールとマラ
以上のように、ロベスピエールはジャコバン派の主要な人物の一人として活動した。その際に、ジャン・ポール・マラーやダントンとセットにされ、三人組として括られることが多い。では、彼らとの関係はどのようなものだったのか。
マラについてみてみよう。マラは革命の支持者であり、『人民の友』という新聞を創刊して影響力を行使した人物である。のちに、ジャコバン派の主なメンバーの一人となった。
マラはロベスピエールの政治家としての活動を観察していた。当初は、ロベスピエールを高く評価していた。卓越した弁論家で、妥協を許さない愛国者であり、報道の自由の擁護者で民衆の信頼を勝ち得た男だと称賛した。
そこで、1792年1月、マラはロベスピエールと会った。マラはロベスピエールを善良で誠実な人物であり、真の愛国心をもつと考えた。だが、政治家としてのビジョンも大胆さも欠く人物だとみなし、失望した。
ロベスピエールはマラには興味を持たなかった。だが、マラの『人民の愛』はロベスピエール自身の政治的目的にとって魅力的な手段だと考えた。
そのため、両者は政治的に利害が一致する場合に、同種の目的で行動をともにした。特に、国王やジロンド派との戦いでは利害が一致することがあった。とはいえ、両者は相互に仲間意識をもったわけではなかった。
ジロンド派は8月蜂起の首謀者としてロベスピエールとマラそしてダントンを三人組として名指しし、糾弾した。ロベスピエールはマラとセットにされるのを嫌った。意図的に距離をとる時期もあった。自身の目的に適した場合に、一致した行動をとった。だが、それ以上ではなかった。
ロベスピエールの名言
・政府が人民の権利を侵害する場合、反乱は人民にとって最も神聖で不可欠な義務である
・革命政府は暴政(ティラニー)に対する自由の専制である
・あらゆる専制主義の中で最悪のものは軍事政権である
ロベスピエールと縁のある人物や事物
●ルイ16世:フランス革命で処刑された王。ロベスピエールは王権の維持を妥当とみなす時期もあった。だが、ルイ16世への裁判では、死刑に投票した。
●マリー・アントワネット:ルイ16世の妻。フランス革命の前夜から最中にかけて、一人前の政治家として影響力を行使した。わがままで浪費好きなお嬢様のイメージとは程遠い政治的アクターだった。
ロベスピエールの肖像画
テルミドール9日のクーデター
おすすめ参考文献
松浦義弘『ロベスピエール : 世論を支配した革命家』山川出版社, 2018
Peter McPhee, Robespierre : une vie révolutionnaire, Classiques Garnier, 2022
David Andress(ed.), The Oxford handbook of the French Revolution, Oxford University Press, 2019
Jean-Pierre Jessenne(ed.), Robespierre : de la nation artésienne à la République et aux nations, Université Charles de Gaulle-Lille III, 1994