セリム1世はオスマン帝国のスルタンで皇帝(1470ー1520)。皇帝の在位は1512 ー 1520 年。イランのサファビー朝やマムルーク朝に勝利し、オスマン帝国を東方へ拡大したイスラム世界での指導的地位を得た。同時に、オスマン帝国のイスラム化で重要な貢献をした。これからみていくように、一人息子はあの有名な人物である。
セリム1世(Selim I)の生涯:冷酷者
セリム1世はトルコのアマスヤで生まれた。オスマン帝国の第8代皇帝バヤジト2世の息子だった。
セリムは兄の王子たちと帝国の後継者争いを繰り広げた。最終的には、イェニ・チェリ軍団の支援を受けて、この争いで勝利した。同様の後継者争いが今後起こるのを予防する狙いもあって、セリムは兄や親族などを殺害した。後継者にはスレイマンだけを残した。それゆえ、冷酷者と呼ばれた。
サファヴィー朝とマムルーク朝との戦い
イランでは、イスマール1世がサファヴィー朝を創始していた。サファヴィー朝はイスラム教のシーア派を信奉していた。また、イスマールの支持者がアナトリアで不穏な動きをみせていた。
1514年、スンニ派を信奉していたオスマン帝国はイスマールとその支持者に攻撃を仕掛けた。チャルディラーンの戦いである。セリムはこれに勝利し、アナトリア地方をオスマン帝国に編入した。
次に、1516年、セリムはエジプトのマムルーク朝に戦争を仕掛け、勝利した。その結果、シリアとエジプトやパレスチナをオスマン帝国の支配下に置いた。これらはアラブ世界の主要な地域だった。
さらに、その際に、セリムはアッバース朝の最後のカリフを幽閉した。セリムは彼からカリフの地位を奪い、自らカリフを称した。かくして、スルタン・カリフ制が成立した。
また、エジプトのカイロでは、メッカの鍵がセリムへと贈与された。メッカはイスラム教の中心地である。よって、これにより、イスラム世界の守護者がマムルーク朝からオスマン帝国の皇帝に移った。
メディナをも支配下に置いた。そのため、たとえば、同時期にポルトガルと交戦中だった東南アジアのイスラム教徒はオスマン帝国に救援を求めることになった。
国内の中央集権化
かくして、オスマン帝国は東方へと拡大していった。それとともに、セリムは帝国が拡大によって衰退しないよう注意を払った。領土の拡大によって、多種多様な宗教や文化の人々がその支配下に組み込まれた。彼らが帝国と対立せず反乱を起こさないようにすべく、セリムは制度上の工夫を考えた。
オスマン帝国はメフメト2世の頃に中央集権化を図るようになった。セリム1世の時代でも、中央集権的だった。オスマン帝国はそれぞれの地域のエリートを垂直的に統合し、スルタンに忠誠を誓わせた。彼らエリートが各地を支配した。
柔軟性の維持
とはいえ、セリムは広大な帝国の全体に画一的なルールを強いたわけではなかった。むしろ、それぞれの地域や住民の特徴、あるいは政治状況に応じて、統治制度や手段を柔軟に組み合わせた。
たとえば、セリムは帝国全体に及ぶような経済政策を行おうとはしなかった。物価統制などの経済的介入は慎重に行う程度だった。地域や状況に応じて、貿易特権を与えることはあった。
よって、オスマン帝国は中央集権を図りながらも、広大であったがゆえに、柔軟性と開放性を備えていた。それぞれのエリートらと交渉を通して統治のあり方を調整した。
その背景として、セリムなどの歴代のスルタンは自身の権力の限界に自覚的だったためである。自身の権力だけで、広大な帝国全体を思うままに支配することには無理を感じた。
また、オスマン帝国がビザンツ帝国の文化を吸収していたのもその背景の一つといえる。その結果、歴代スルタンは古代ローマやビザンツ帝国の広大な支配の仕組みを学んだ。また、古代ローマが拡大の結果として衰退に至ったという理論も知っていた。
イスラム教の帝国へ
オスマン帝国といえばイスラム教というイメージをもたれているかもしれない。しかし、オスマン帝国はもともと中央アジアの平原にルーツを持っていた。そのため、当初からイスラム教徒密接な関係にあったわけではなかった。オスマン帝国はビザンツ帝国の文化を吸収した。
メフメト2世の時代に、その首都コンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼした。コンスタンティノープルを自らの首都にし、イスタンブールに改称した。メフメトはイスラム教のモスクや学校を設置した。かくして、この頃、オスマン帝国とイスラム教との結びつきが深くなっていった。
上述のようにセリム1世はアナトリアやアラブ地方で領土拡大することで、多くのスンニ派イスラム教徒を支配下に置くことになった。シーア派のサファヴィー朝に勝利した後、マムルーク朝を滅ぼした。
メッカやメディナなどのイスラム教の主要地域を支配下に置き、カリフとなった。イスタンブールでは、イスラム教の宗教学者が集まるようになり、様々な面で影響力を持ち始めた。
イスラム教を取り込む意図
セリムはイスラム教をオスマン帝国に組み込むことに利点を見出していた。イスラム教の守護者を自負することで、スルタンの権力の正統性を強めようとしたのである。
それまで、オスマン王朝は自身の権力の正統性を最初の正当な支配者オスマンの子孫であるということに基づけていた。オスマンはさらに中央アジアの伝説的人物オグズ・ハーンの一族に遡るという言説が構築された。こうして、オスマン帝国はオスマンの子孫のみを王位継承者として認める体制を築いてきた。
セリムは帝国の領土を拡大し、多種多様な人々を支配下に加える中で、この正統性の源泉にイスラム教を追加したのである。同時に、拡大していく帝国が様々な習俗や利害で分裂するのを防ぐ紐帯として、イスラム教を利用しようとした。かくして、オスマン帝国のアイデンティティの中にイスラム教が本格的に組み込まれることになった。
ただし、イスラム教はオスマン帝国の排他的な宗教になったわけではなかった。それはイデオロギーの面でも制度の面でもそうだった。たとえば、ビザンツ帝国の宗教と文化は一掃されたわけではなく、新たなイスラム教の要素と均衡を保った。
スレイマンの最盛期へ
セリム1世がこのようにオスマン帝国を東方に拡大した後、後継者のスレイマン1世が地中海世界を支配し、繁栄のピークをもたらすことになる。
セリム1世と縁のある人物
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セリム1世の肖像画
おすすめ参考文献
近藤信彰編『近世イスラーム国家史研究の現在』 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所, 2015
Karen Barkey, Empire of difference : the Ottomans in comparative perspective, Cambridge University Press, 2008
H. Erdem Çıpa, The Making of Selim : Succession, Legitimacy, and Memory in the Early Modern Ottoman World, Indiana University Press, 2017