クレルヴォーの聖ベルナールはフランスの修道士(1090ー1153)。シトー会のクレルヴォー修道院の創設者および修道院長になり、修道院改革で活躍した。神秘主義神学も重要と考えられ、「甘蜜博士」と呼ばれる。これからみていくように、あの十字軍に大きな影響力をもつ人物だった。
ベルナール(Bernard de Clairvaux)の生涯
クレルヴォーのベルナールはフランスのブルゴーニュ地方のディジョン近郊で貴族の家庭に生まれた。
当時のヨーロッパでは、修道院の運動が低調になりつつあった。かつて禁欲主義で知られていたベネディクト会がその理想から離れるなどして、修道会の運動が衰退していた。そこで、修道会の刷新を目指した人々がでてきた。
彼らはシトー修道会を結成し、かつての理想の実現に邁進しようとした。だが、必ずしもスムーズに成功したわけではなかった。
シトー修道会へ
1112年、そのタイミングで、ベルナールがシトー修道会に入った。 自身だけでなく、親戚や友人の30人を説得し、ともに修道士となった。 禁欲の実践や断食、聖書の研究や黙想に励んだ。
修道院制度の改革:クレルヴォー修道院
1115年、ベルナールはシトー会の新たな修道院の設立場所としてクレルヴォーを見出した。12人の修道士とともに、クレルヴォー修道院を創設した。自らその新たな修道院の修道院長になった。
謙遜と禁欲を推奨し、聖職者の堕落を厳しく批判した。たとえば、当初、ベネディクト会やクリュニー修道院は食事にかんしても節制を行っていた。だが、次第に食事の量が増えていった。さらに、大食いの修道士がでてきた。ベルナールはこの食事の不節制も批判した。
特に、ベルナールはベネディクト会の奢侈などの問題を批判するなどして、修道院の改革運動を推進した。彼らの活躍により、クレルヴォー修道院はその主な拠点となった。ベルナールの活躍により、この場所がシトー会の中心地となっていく。
ベルナールは没するまでに70近くの修道院を新設した。350ほどあったシトー会の修道院のうち、ほぼ半数がクレルヴォーの管轄下に置かれた。
ベルナールが育て上げた修道士の中から、教皇や枢機卿も誕生した。著作を通して、より広く影響力をもった。14世紀に至るまで、歴代の教皇も彼の著作の影響を受けた。
シャルトルーズ修道院を訪ねて
ベルナールは当時の新興のシャルトルーズ修道院を訪れた。これはブルーノがブルターニュ地方に設立したばかりの修道院であり、隠修士の流れをくむものだった。シトー会の修道院改革の影響を受けながら、俗世間から離れ、活動した。
祈り、読書、手仕事などを行った。質素な生活で粗食であった。特徴的なのは、他の修道士と共住生活をしながらも、各人に個室が与えられていたことである。
それぞれが各自でできるだけ完結した修道士としての生をまっとうできるよう工夫されていた。ベルナールはこの修道院の新たな試みに感銘を受け、敬意を示した。
教会分裂の解決
ほかにも、ベルナールは別の仕方で教会に貢献した。当時、インノケンティウス2世とアナクレトゥス2世の二人がローマ教皇を自認した。
だがローマ教皇は一人でなければならないと考えられてきた。教皇は教会のトップと考えられたためだ。二人が同時に教皇を自認し、教皇として振る舞い続ければ、教会は混乱するだろう。
そこで、ベルナールはこの問題の解決に積極的に関与した。インノケンティウス2世を擁護した。彼の地位が当時の主要な王たちに認められるよう働きかけた。
ついには、アナクレトゥス2世への破門をもたらした。かくして、インノケンティウス2世だけが教皇として残り、問題は解消された。
第二次十字軍の訴え
ベルナールは第二次十字軍を派遣するよう、有力な諸侯に勧説した。
背景として、11世紀末に第一次十字軍がエルサレムを奪取した後、イスラムのザンギー朝が反撃を開始した。これにより、エルサレム周辺の領地が再び彼らの支配下に移っていった。
12世紀なかば、教皇エウゲニウス3世により、第二回十字軍が提唱された。エウゲニウス3世の依頼で、ベルナールは諸侯に第二次十字軍への参加を促した。この勧説は成功した。
というのも、ベルナールはすでに名声を確立し、説教師としても影響力が大きかったためである。実際に、皇帝やフランス王ルイ7世などが参加した。
だが、結局、この十字軍は失敗に終わった。その過程で、ベルナールは政治に関わりすぎているという批判も受けた。ベルナール自身は、なぜ神がこの十字軍を失敗させたのかを困惑しながら考えた。
ほかにも、ベルナールはアベラールへの異端宣告など、様々なトピックで知られている。ベルナールは1153年に没した。そのまもなく、1174年に列聖されることになる。
聖母の乳を受け止めるベルナール
ベルナールは聖母マリア崇拝への貢献でも知られる。中世キリスト教では聖人崇拝が隆盛を極めた(その結果、16世紀の宗教改革で主な批判対象となった)。その最たる聖人の一人がキリストの母のマリアである。
聖母マリアとベルナールへの聖人崇拝の一環で、ベルナールが聖母マリアの乳を受け止めるという絵画が14世紀頃から制作されるようになった。これはベルナールが聖母マリアの絵画を通して幻視を体験するという場面を描いたものである。
このような出来事はベルナールの公式の伝記では触れられていない。だが、彼自身の「『雅歌』に関する説教集」が典拠のようである。このような絵画が対抗宗教改革の時代に人気を博すことになる。
この絵画で示されているのはなにか。ベルナールはキリストのように神の恩寵と貧しき者(信徒)の媒介者となるために、書物とそれが象徴する世俗的な知と世俗的世界を捨て去る。
書物の知よりも、より高位の神的な知を享受しようとする。聖母マリアの乳を受け止めることによって、神の叡智を霊的にのみならず肉体的にも吸収する。この聖なる食べ物を貧しき者たちにたいして同様に霊と肉において施す。
ベルナールと縁のある人物
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ベルナールの肖像画
おすすめ参考文献
レオン・プレスイール『シトー会』遠藤ゆかり訳, 創元社, 2012
ヴィクトル・I・ストイキツァ『幻視絵画の詩学 』松井美智子訳, 三元社, 2009
William of Saint-Thierry, Arnold of Bonneval, The first life of Bernard of Clairvaux, Cistercian Publications, 2015
Adriaan H. Bredero, Bernard de Clairvaux (1091-1153) : culte et histoire : de l’impénétrabilité d’une biographie hagiographique, Brepols, 1998