トマス・モアは16世紀のイギリスで政治や学問などの分野で多面的に活躍した人文主義者(1478 – 1535)。弁護士としてキャリアを開始した。外交や財務の職務をつとめ、最終的には、大法官の重職に昇りつめた。学識にも優れ、『ユートピア』の世界的名著を生み出した。それを可能にしたのは、これからみていくように、当時のヨーロッパ中を魅了したあの出来事だった。
モア(Thomas More)の生涯
モアはロンドンで法律家の家に生まれた。幼少期から、カンタベリー大司教のもとに仕えた。
モアはオックスフォード大学に進学した。当初は古典古代の文学を学び、ギリシャ語などの素養を身に着けた。だが、法律家だった父はモアがその道を続けるのを望まなかったので、モアは中退させられた(ただし、実際にはモアの意志で法律家の道を目指したという説もある)。
モアは法律家になるべく、ニュー・インで学んだ。さらに、リンカーン法学院で勉学を続け、法学をおさめた。
法律家や政治家として
1501年、モアはリンカーン法学院を卒業し、弁護士としてのキャリアを始めた。 さらに、政治家としても活動を開始した。
1504年、下院の議員に選出された。ヘンリー7世の財政支出の増加に反対した。その後、モアはロンドンの判事となり、ますます忙しくなった。
1515年、モアはネーデルラントとの通商協議のためにブルージュに派遣された。時間ができたので、メヘレンやアントワープに旅行した。
アントワープでは、エラスムスの友人で印刷業者のヒリス(Pieter Gillis)に歓待された。彼との交流が『ユートピア』につながる。
人文主義者として:エラスムスとの交流
モアは弁護士として働くようになった後も、古典古代の人文学への関心を失ったわけではなかった。むしろ、その反対だった。たとえば、リンカーン法学院に在学中に、オランダの代表的な人文主義者のエラスムスと交流をもつようになった。
1509年、エラスムスはモアの家を訪れた。その際に、代表作の一つの『痴愚神礼讃』(1511)を執筆したる。
1510年には、モアはフィレンツェの人文学者ピコ・デラ・ミランドラの伝記を英訳した。ピコに独立した哲学者の像を見出そうとした結果だった。ただし、原著に忠実ではなく、大胆にカットしながら訳した。
1520年代には、スペインの人文主義者ルイス・ビーベスとも親交をもつようになる。ビーベスはスペインでの迫害を恐れて、ネーデルラントのブルージュなどで活動しており、エラスムスとも交流をもっていた。よって、彼らの人文主義者のネットワークが形成されていた。
『ユートピア』
モアの代表作の『ユートピア』(1516)は、1515年のネーデルラント滞在中の経験をもとに執筆された。その背景には、コロンブス以降に本格化する大航海時代の到来がある。
背景としての大航海時代
1492年、コロンブスがアメリカを「発見」した。当時、コロンブスはそもそもインドに到達する予定だった。そのために、スペイン国王から出資金をえていた。それゆえ、彼は実際にはアメリカに到達したものの、死ぬまで自分がインドに到達したと言い張った。
1515年の時点では、アメリカはまだまだ十分に探検されていなかった。アメリカは新大陸かもしれないという憶測は存在した。だが、誰もそれを確証していない状態だった。このように、『ユートピア』の執筆時点では、新世界の地理情報が極めて曖昧だった。
新世界に航海した人々の一部が貿易などのためにヨーロッパに戻ってきた。彼らは新世界の話を、港町の酒場などで広めた。新世界はヨーロッパと多面的に異なっていた。たとえば、生息する植物や動物が大いに異なっていた。それゆえ、新世界は未知の世界だと思われた。
モアが外交活動で訪れたネーデルラントには、そのような航海士が訪れた。あるいは、新世界に関する彼らの噂話が伝わってきていた。モアはそれらを知った。そして、上述の状況を利用して、『ユートピア』を執筆した。よって、アメリカの「発見」が『ユートピア』の執筆を可能にした。
『ユートピア』の内容
「ユートピア」はどこにもない場所という意味である。出版する前までは、モアは本書を「ヌスクアマ」と呼んでいた。これは「どこにもない」という意味のラテン語のnusquamにちなんだタイトルだった。
かくして、どこにも存在しない理想郷のようなものが本書で描かれた。
とはいえ、モアはユートピアを単なる空想話として提示したのではなかった。むしろ、次のようにしてユートピアに一定のリアリティを与えようとした。
当時は上述のように、アメリカで新たな探検が繰り広げられていたので、様々な未知の地域が「発見」されていった。モアはユートピアがそのうちの一つの地域であるかのように語った。
『ユートピア』は当時の社会風刺や批判を行っていたので、それに一定のリアリティを与えようとしたのは当然のことでもある。
社会風刺
たとえば、モアは当時の黄金郷伝説を逆手に取る批判を行った。当時、アメリカで探検・征服を行う人々の主な目的の一つは、金銀財宝を得ることだった。アメリカはまだ未知の土地だったので、アメリカには黄金郷があるという噂がまことしやかに語られていた。
モアはユートピアの理想郷を、金銀がふんだんにある都市として描いた。つまり、黄金郷として描いた。だが、ユートピアでは、金銀は卑しいものとみなされており、便器などに使用されているとされた。
そのようにして、モアはアメリカの探検者や征服者の拝金主義を、さらにはヨーロッパでの拝金主義を揶揄したのだった。
国王の重臣としての活躍から処刑へ
モアは政治家としても次第に名を馳せるようになった。そこで、国王ヘンリー8世から信任を得るようになった。1520年代には、宮廷の中枢に入り込むようになった。
ドイツのルター主義の勃興にたいして、イギリス王権は否定的な態度をとった。そこで、モアはイギリス国内での異端対策に関わることになった。モアの任期中、6名が異端の罪で処刑された。
他方で、優れた雄弁家として、外交交渉にも派遣された。議会では、下院の議長にも選ばれた。ついに、1529年には、大法官の地位に任命された。
国王の離婚問題
国王の離婚問題が転機となった。この時期、ヘンリー8世には男子の後継者がいなかった。彼はその頃の王妃では子供が生まれないと判断し、離婚しようとした。
だが、当時のカトリック教会の教義では、ローマ教皇による離婚の許可が必要とされた。そこで、ヘンリーはそれを求めた。だが、教皇は当時の国際情勢を踏まえて、その要望を拒否した。
この問題をめぐり、ヘンリー8世はカトリック教会を離脱して、プロテスタントの英国教会を設立することになる。その流れで、モアはヘンリー8世が新たな教会を建ててそのトップになることや離婚に反対した。
そのため、1532年には大法官を辞職した。1534年、国王至上法が制定された。イギリス王は公式に英国教会の首長となった。これを認めない者は反逆罪になると定められた。だが、モアは認めなかった。そのため、ついに投獄された。反逆罪として、処刑された。
モアの名言
「そもそも、彼らはなぜあなたを王にしたと思うか? あなたのためではなく、彼らのためです。 彼らの生活をより快適なものにし、彼らを不正から守ることに力を注げということだ。 厳密に言えば、羊飼いの仕事は羊に餌を与えることであって、羊自身に餌を与えることではないように」
「もし、あなたが民衆を不教育にし、その習俗を幼児期から堕落させ、彼らが最初の教育によって犯すようになった罪のために彼らを罰するとしよう。その場合、あなたがまず彼らを盗賊にしてから彼らを罰しているのだということ以外に、このことから何が結論づけられるであろうか」
「人間の愚かさは、金や銀が希少であるために、金や銀の価値を強めてきた。それとは反対に、自然は寛大な親として、水や大地のような最良のものをすべて惜しみなく豊かに与えてくれたが、むなしく無益なものは私たちから隠した」
「風をコントロールできないからといって、嵐の中で船を見捨てることはないだろう」
モアと縁のある人物
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トマス・モアの肖像画
モアの主な著作・作品
『リチャード3世史』 (1514)
『ユートピア』 (1516)
おすすめ参考文献
鈴木宜則『トマス・モアの思想と行動』風行社, 2010
Marie-Claire Phélippeau, Thomas More, Gallimard, 2016
George M. Logan(ed.), The Cambridge companion to Thomas More, Cambridge University Press, 2011