津田梅子:明治の開明的な女性のリーダー

 津田梅子は明治から大正の女子教育者(1864―1929)。明治初期、6歳にして岩倉使節とともに海を渡り、11年間、アメリカで留学した。帰国後、女子教育に携わった。再び留学し、帰国後、自律的な女性を育て上げるために女子英学塾を設立した。これが津田塾大学に発展する。さらに、これからみていくように、その活躍は国内にとどまるものではなかった・・・。

津田梅子(つだうめこ)の生涯

 津田梅子は江戸で佐倉藩士の家庭に生まれた。父は西洋農学者の津田仙である。
 梅子が生まれる少し前、アメリカからペリーが黒船で来日し、大きな時代の節目となった。父の津田仙は黒船来航を目撃しており、大きな衝撃を受けた。西洋の学問に没頭し、特に農学を学んだ。

 アメリカ留学へ:岩倉使節団への同行

 1868年に明治維新が起こった後、明治新政府は欧米から先進的な文化や技術などを吸収すべく、1871年に岩倉使節を派遣することになった。

 その際に、北海道開拓使の黒田清隆の発案で、女子留学生を同時にアメリカに派遣することになった。
 アメリカが選ばれた理由は、アメリカがすでに北米大陸の大規模な開拓を行っていたので、北海道開拓のモデルに選ばれたためだった。女子を派遣することにしたのは、開拓には優れた女性が必要だと考えられたためだった。

 津田仙は明治新政府の要人と知り合うようになった。開拓使海外留学生の企画を知り、娘の梅子を推薦した。これが認められ、1871年、梅子は6歳にしてアメリカ留学へと旅立った。女子留学生は全員で5人であり、梅子は最年少だった。

幼少期の津田梅子
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/) 

 梅子はそれから11年間、アメリカで学んだ。ワシントン近くのアメリカ人の家庭のもとで育ち、アーチャー学院で初等教育と中等教育を受けた。美術や文学などに関心を深めた。
 同時に、数学や物理学などの自然科学も得意だった。この頃、キリスト教徒に改宗した。

 女子教育の推進へ:英語教育と女性の自律

 1882年、梅子は帰国した。1885年、皇后の発案により、学習院の女子部が華族女学校になった。伊藤博文の推薦により、梅子はその教授になり、英語を教えた。
 この時期、梅子は女子学生たちの自主性の乏しさを問題視した。また、日本では女性の地位が非常に低いことを認識し始めた。この低さが社会的に問題視されていないことを問題とみなすようになる。その改善のためにも、女子教育の推進に一層熱が入った。

 再び留学へ

 1889年、梅子は再びアメリカに留学した。教師としてさらなる熟達を図ったためである。さらに、大学教育のような高等教育を受けることができていなかったのも一因であった。
 だが、費用が問題だった。梅子はかつてのホームステイ先のホストなどに連絡し、相談した。その縁で、ブリンマー大学が学費などの免除という優遇条件のもとで、梅子の入学を受け入れた。
 プリンマー大学はキリスト教系の女子大学である。女性にも男性と同様に学問をしっかり行わせる大学であった。アメリカの女子大学として、最初に大学院を設置している。
 かくして、梅子は留学に旅立つことができた。さらに、勤務していた華族女学校では、帰国して復職するという計画になり、留学中にも給料が支払われ続けた。

科学的才能の開花

 梅子はこの大学で生物学を学んだ。生物学が体系的にカリキュラムに組み込まれて日の浅い時期であった。さらにいえば、もともと英語教授法を英語教師として学びに行くという目的とは、ズレがあった。
 梅子は生物学の研究で優れた科学的才能を認められた。カエルの卵の研究では、当時の著名な生物学教授モーガンとの共著論文を執筆することになった。そのままアメリカの大学で生物学者として成長することも期待され、そのための打診を受けた。それほど自然科学の才能に恵まれていた。

 ちなみに、梅子は帰国後も長らく生物学への関心を維持し、研究をできる限り続けようともしていた。モーガンからも再度研究室に戻ってこないかと打診を受けることになる。
 梅子は最後の一年間、オスウィーゴ師範学校に移り、英語教育を学んだ。

帰国後

 1892年に梅子は帰国し、華族女学校の教授に復帰した。その後、女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の教授を兼任した。女子教育に携わるかたわら、梅子は1898年に万国婦人連合大会に参加すべく、再び渡米した。

 その帰り道にイギリスに立ち寄った。オックスフォード大学で英文学や倫理学の講義を聴講した。また、女子の高等教育の視察をした。

女子英学塾の設立へ:津田塾大学の誕生


 帰国後、1900年、梅子は華族女学校と女子高等師範学校の職を辞した。同年、優れた自律的女性を育て上げるために、東京の麹町に女子英学塾を設立した。英語教育とキリスト教的な教養を重視した。この学校は津田英学塾になり、1948年津田塾大学となる。

 学校経営とともに、1901年、英文新誌社を設立した。そこで英語の教材を制作し、英文学の書籍を刊行した。

 中流家庭以上の女子教育に貢献するかたわら、梅子は日本の女性や教育にかんして海外に紹介した。当時、岡倉天心のように、英語で日本を紹介する一群の人々がおり、梅子もその一人だった。1929年に没した。

 津田の女子教育論

 津田は女子英学塾での経験を踏まえて、「女教邇言」の中で女子教育の方針について述べている。
 女子英学塾には一通りの教育を受けた16歳以上の女子が通っていた。しかし、津田からすれば、彼女たちの能力が思ったよりも低かった。たとえば、英語の原書の読解力が低かった。彼女たちは直訳することはできても、その意味をほとんど理解していない。
 津田によれば、その原因は日本人の女子が他者に依存しすぎる点にある。あるいは、「今日の女學生には兎角、自主獨立といふ心に乏しい」点にある。
 上の例であれば、英書の読解でわからない問題があっても、自分の力でそれを解決しようとしない。すぐに教師に答えを聞こうとする。

 そのため、津田は彼女たちに、勇気を持って自分たちで答えを探し出すよう促す。それは何も読書に限らない。どんなことであっても、難しくても分からなくても、まずは自主的に行って見るよう求める。
 もっとも、新しいことはまず一度教える。だが二度は教えない。それでもうまくいかないなら、その時に初めて教師が教える。あるいは、女学生が作文で間違いをした場合には、まずは間違った場所に記しをつけるだけにする。

 自分自身で間違いを探させる。それでもどうしてもわからないなら、その時になって教師が間違いを説明する。こうすることで、学生は自発性や独立心を養うことができる。
 さらに、津田は寄宿舎の運営を通して、女学生の独立心や責任感を養うことについても述べている。 
 英学塾は寄宿舎をもっており、50名ほどの女学生がそこに住んでいた。津田は寄宿舎を放任主義としていて、ルールは少なく、たとえば就寝と起床の時間ぐらいだった。

 その意図は学生たちの自主独立心と責任感を育むことにあった。津田は言う。もし寄宿舎に詳細なルールを設けたなら、彼女たちはそれらを他人から命令されたこととみなし、軽んじることになる。

 これこそ独立心を弱める原因であり、よって「日本婦人の大ひなる弱點」である。日本人女性は依存心が強く、意思が弱いのも、ここに原因がある。これを改善するために、責任感を養うことが肝要である。
 放任主義によって、寄宿学生は責任感をもって自発性を発揮するようになる。寄宿舎で共同生活を送るうえで、他の学生の便宜を考えなければならない。
 詳細なルールが設けられていないので、学生たちは何をすべきか、あるいはすべきでないかを考え、実行しなければならない。自分で考えて、自らの責任で実行するようになる。
 独立心と責任感をもって行動することは今後活躍する上で求められている。津田からすれば、従来の日本の習慣では、「責任を重んずるの念に乏しい。獨立して物を治めて行くといふ事が少しも無い」。

 従来の日本の女性や女学生に独立心や責任感が乏しいのは主にこの習慣の結果である。だからといって、今後活動する上で、なんらかの詳細な命令や規則を彼女たちに与えるのは有用な方法ではない。

 というのも、規則は時代や場所などの境遇が大きく変わればもはや通用せず、むしろ有害になることもあるためだ。だからこそ、各人が自分自身でそれぞれの境遇に対処できるよう独立心を養うことが重要だ。そのための放任主義である。独立心と責任感を養う習慣づけである。

 「この狹い小さな家塾で其の習慣をつけて置くのは他日大ひなる社會、廣き世界へ出て事の缺けない仕度で御在ございます」。20世紀の始まりにあって、津田は日本女性の世界的活躍を見据えていた。

津田梅子の肖像画

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

おすすめ参考文献と青空文庫

高橋裕子『津田梅子 : 女子教育を拓く』岩波書店, 2022

古川安『津田梅子 : 科学への道、大学の夢』東京大学出版会, 2022

古木宜志子『津田梅子』清水書院, 2016

高橋裕子『津田梅子の社会史』玉川大学出版部, 2002

※津田梅子の作品は無料で青空文庫で読めます(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person2165.html)

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