ヴァスコ・ダ・ガマ:西洋の東アジア進出を可能にした男

 ヴァスコ・ダ・ガマはポルトガルの航海士やインド副王(1460年頃ー1524)。アフリカ南端の喜望峰を周ってインドに到達する東インド航路を開拓し、宿願のインド貿易を開始した。ポルトガルに黄金時代をもたらした。この記事では、ガマの東インド航路開拓やその後のインド航海をその背景や目的とともに説明する。

ガマ(Vasco da Gama)の探検航海の背景

 ポルトガルの大航海時代は1415年、アフリカ北部の都市セウタを攻略したことで始まった。その後、ポルトガルはエンリケ航海王子などの主導のもとで、アフリカの西岸を徐々に南下していった。スペインもこれに続いた。

 スペインはコロンブスが1492年、この南下ルートから西へ大きく移動し、アメリカの「発見」に至った。だが、ポルトガルはそのままさらにアフリカ大陸を南下することで、インドに到達しようとした。

 喜望峰をまわって東インド航路を開拓したガマ:その目的

 1497年、ポルトガル国王マヌエル1世 はガマにたいして、インド航海を命じた。目的はインド貿易や東方の財宝の発見であった。
 他の目的は伝説上の王プレスター・ジョンとの同盟を結ぶことだった。当時のポルトガル人は、プレスター・ジョンというキリスト教の王がアフリカ南部に実在すると信じていた。
 ポルトガルは彼と同盟を組んで、アフリカや中東のイスラム教の王朝をともに攻め込もうとしたのだ。ここに、十字軍あるいはレコンキスタ(イベリア半島の再征服)の精神がみられた。
 ガマはサン・ガブリエル号などを率いて出発した。170名で四隻だった。ヴェルデ岬などを通過し、喜望峰をまわった。1498年には現在のモザンビークに到達した。ここで、そこから先の道案内として、アラビアの水先案内人を雇った。

 そこからは順調に進んだ。同年5月には、ついに念願のインドに到達した。かくして、ガマはヨーロッパ人として初めて東インド航路を開拓した。

 インドのカリカットにて

 ガマはインドの南西部の主要都市カリカットに到来した。その地の支配者に謁見し、ポルトガル王の書状や贈り物を贈った。カリカットの支配者はガマを歓待した。だが、条約締結には至らなかった。

 原因は、ガマの持参した貿易品がインドでは需要がないように思われたことだった。さらに、インドですでに貿易活動をしていたイスラム商人による妨害も一因だった。それでも。現地で香辛料を購入できた。

 次第に、ガマと現地のイスラム教徒の対立が深まった。ガマが十字軍精神を抱いており、イスラム教徒にたいして敵対的だったのも一因である。ガマは急いで帰路につこうとした。だが、季節風に恵まれず、難航した。帰路の船旅で多くの船員が病死した。

 1499年9月、ガマはようやくリスボンについた。ガマは出世し、領地を与えられ、報奨金も得た。このようにして、ポルトガルは念願のインドとの香辛料貿易を実現した。特に、大量の胡椒を輸入し、ヨーロッパで莫大な利益をあげることになる。

 ガマが到来した東アジアでは、ポルトガルに匹敵する武装した船はみられなかった。平和な交易の船か、粗末な装備の船しかなかった。そのため、ポルトガルは艦隊でインド洋で比較優位に立っていた。

東インド航路の開拓と胡椒

 ながらく、ポルトガルはインドとの香辛料貿易(特に胡椒貿易)のために、大航海時代を開始したと考えられてきた。だが、これは厳密にみると、正確ではない。
 ガマとの関係で重要なのは、ポルトガルが1450年代になってようやくインドとの香辛料貿易を本格的に実現しようとし始めたことだ。ガマはそのための手段となり、この目的を達成した人物だった。
 なお、当時の胡椒は西欧では高級食材ではなかった。むしろ、西欧のスパイスの中でほとんど常に最安だった。当時の西欧では今日よりもスパイスを料理で多く使ったが、胡椒は庶民が最もよく使ったものである。
 特に、15世紀から胡椒は庶民のスパイスとして定着していった。それゆえ、高級料理では敬遠されたほどだった。薄利多売の商品だったのである。

 第二回のインド航海

 ガマの帰着後、ポルトガルはインド進出を本格化させた。その頃、インドではイスラム商人が活発に活動していた。彼らはポルトガルの進出を危惧し、戦いを挑んできた。そこで、1502年、ガマは応酬すべく、ふたたびインドへ派遣された。
 上述のカリカットの支配者は現地のイスラム商人とともに、ガマに対抗した。カリカットの支配者は周辺地域の領主たちと敵対していた。
 ガマはこれらの領主を味方に引き入れ、カリカットの支配者やイスラム教徒とカリカットで戦った。一定の成果をあげ、帰路についた。
 なお、この第二回航海に際して、ガマはカリカット付近でアラビア船を拿捕し、積み荷を奪った。その際に、多くのアラビア人を乗船させたまま、この船を燃やしたといわれている。そのため、ガマは現地で激しい非難の的になった。
 ただし、今日においては、ガマが本当にこのような虐殺をしたのかは疑わしいとされている。
 その後、ガマは1505年頃までは、インド貿易にかんして王の顧問をつとめた。その後はながらく公職から身を引いた。

 第三回のインド航海と死:インド副王として

 第三回航海は1524年である。ポルトガルは副王アルブケルケによってインドのゴアや東南アジアのマラッカなどに重要な拠点を築いていた。だが、様々な問題が生じていた。
 そこで、国王ジョアン3世はガマをインド副王に任じ、派遣した。これは、インド植民地の最高権力者であり、国王の代理人である。ガマは副王としてインドに到達した。だが、まもなく病で没した。

 ヴァスコ・ダ・ガマの重要性

 ガマの東インド航路開拓によって、ポルトガルは東アジア貿易を主軸として本格的に大航海時代を迎えた。これはポルトガルの黄金時代でもあった。ガマの活躍は、同時代のポルトガルの文学者カモンイスによって称揚されている。

 また、17世紀には、他のヨーロッパ諸国が本格的に東アジアの海に進出することになる。ガマはそれらの先鞭をつけた人物であった。

 ヴァスコ・ダ・ガマと現代のポルトガル

 
 大航海時代、ポルトガルの探検家や商人たちはリスボンのベレン地区の港から出発し、アフリカへ、さらに喜望峰をまわって東アジアへ旅立った。ここは遥かなる旅路の出発点であった。

 そのため、この地区には大航海時代にかんする歴史的建造物が多い。まず有名なのは、ジェロニモ修道院である。これは上述のマヌエル1世が建造を命じたものだ。完成にはかなりの年月がかかったが、ポルトガルの東アジア貿易の莫大な利益が投じられた。

 この修道院の中には、ヴァスコ・ダ・ガマの墓がある。非常に凝った独特の装飾と造りをしている。ガマがポルトガルでいかに特別な存在とみなされているかが理解できる。

 さらに、ベレン地区には、海洋博物館がある。この博物館はリスボンの様々な博物館の中でも、メインディシュといえるものだ。というのも、ポルトガルの黄金時代はまさに大航海時代であり、ポルトガルが海洋進出によって発展した国だからだ。

 そのエントランスに、ガマの堂々とした石像が設置されている。今日のポルトガルにおいて、ガマが大航海時代の中心人物として認知されていることがわかる。

 海洋博物館では、時代順にそって、ポルトガルの海洋進出にまつわる史料が展示されている。大航海時代のエリアでは、日本にかんする展示もある。ザビエルの日本宣教についても触れられている。

 さらに、館内には、それぞれの時代の船のレプリカや現物を多く展示しているスペースもある。大きめの体育館くらいの広さだ。東アジアに到達するような船でさえもたいした大きさではなかったことに驚きを感じるかもしれない。

ヴァスコ・ダ・ガマと縁のある人物

☆マヌエル1世:ガマが奉仕したポルトガル王。ガマなどのおかげで、ポルトガルの黄金時代を享受した王。

https://rekishi-to-monogatari.net/man143kdj

●アルブケルケ:ガマがインド航路を開拓した後、南アジアや東南アジアにポルトガルの海洋帝国を構築していったポルトガルの副王。

https://rekishi-to-monogatari.net/afaldjshs

●コロンブス:ガマのインド航路開拓の少し前、スペインのためにアメリカをたまたま「発見」した航海士。

ヴァスコ・ダ・ガマの肖像画

ヴァスコ・ダ・ガマ 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめの参考文献

P・フェルトバウアー『喜望峰が拓いた世界史 : ポルトガルから始まったアジア戦略1498-1620』藤川芳朗訳, 中央公論新社, 2016

Gaspar Correa, Three voyages of Vasco da Gama, and his viceroyality, Cambridge University Press, 2010

Anthony Disney(ed.), Vasco da Gama and the linking of Europe and Asia, Oxford University Press, 2000

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