アンドレアス・ウェサリウスはベルギー(ネーデルラント)の医師(1514ー1564)。当時の慣習に反して、自ら人体解剖を行い、その観察に基づいて最初の近代的な解剖学の書を著した。よって、近代的な解剖学の創始者として知られる。科学革命の礎の一つを築いたといえる。この記事を読むことで、ヴェサリウスの人体解剖がこの時代においてどのような意味をもち、どのような革新をもたらしたかを具体的に知ることができる。彼の人体解剖は単なる科学的営みではなかったことが理解されるだろう。
ヴェサリウス(Andreas Vesalius)の生涯
ウェサリウスはブリュッセルで、医師の名家に生まれた。ルーベンで古典語の教育を受けた。同時に、この頃からすでに動物の解剖を自ら行うなど、科学的興味を抱いていた。
1533年、すでに名門だったパリ大学に留学した。アンデルナハのギュンテルらに師事して、医学を学んだ。そこで得たものは大きかった。パリ大学が人体の解剖を許可された稀有な大学の一つであったのも、ウェサリウスにとっては好ましかった。
中世ヨーロッパの人体解剖の制限
そもそも、西欧では長らくの間、人体解剖は一般的に許可されていなかった。キリスト教の考えに反する部分が多かったためである。たとえば、キリスト教においては、人間は神の似姿であると考えられた。
他の生物と異なり、人間だけが神に似ているからこそ、人間はあらゆる生物などを統べる特別な存在として捉えられた。だからこそ、この神に似た人間の身体を切り開くのは問題であり、信仰に反する行いとみなされた。
ほかにも、最後の審判の後に、あらゆる死者が復活すると考えられた。その復活のときには、身体が必要になるという考えもみられた。そのため、身体を切り開くのには問題があると思われた。
それでも、14世紀頃には、イタリアやフランスなどで人体解剖が医学教育に組み込まれ始めた。当時の上層階級の遺体は防腐処理を行う習慣があったので、そのために解剖学の知識が不可欠だった。
そこで、特別に許可を与えられた大学で、年に一回の解剖実習が行われるようになった。パリ大学はその一つだった。ウェサリウスの時代はこの延長線上にあった。
外科医による解剖
とはいえ、ウェサリウスには不満もあった。解剖自体は、外科医も兼ねていた理髪医師に任せられていたためだった。これも次のような中世の伝統ゆえだった。
中世においては、医学の専門教育を受けた医者はしばしば聖職者でもあった。13世紀のカトリック教会による第四ラテラノ公会議で、血液は不浄だと宣言された。その結果、副助祭以上の聖職者は、手術などの出血を伴う医療行為の実践を禁止された。
というのも、ミサという神聖な仕事を行う者の手が血で汚れてはならないとされたためだ。事実上、手術は聖職者ではなく平信徒の仕事になった。 平信徒の外科医が外傷の治療や瀉血を担当した。
その結果、外科医への内科医のさげすみが生じた。このような流れの中で、人体解剖もまた外科手術と同様に、教授の威厳にそぐわないと考えられ、外科医に任せられた
解剖学者としての活躍:ウェサリウスによる変革
1536年、ウェサリウスはルーベンに戻ってきた。処刑された犯罪者の人骨を刑場で入手するなどして、人体の研究に勤しんだ。
1537年、イタリアのパドヴァ大学に留学した。当時、パドヴァ大学の医学部はヨーロッパでも随一の名門だった。それゆえ、この大学でも人体解剖は許可されていた。ウェサリウスは同年に医学の学位を取得した。それのみならず、解剖学の教授にも就任した。23歳という異例の若さだった。
上述のように、ウェサリウスはパリ大学での解剖のあり方に不満を抱いていた。そこで、さっそくこの点を改めた。すなわち、医学の教授自身で解剖を行い、説明する方法を始めた。
ショーとしての解剖学講義
しかも、この公開解剖は単なる医学講義だったわけではなく、それ以上の性質を帯びていた。この時期から、解剖を行う専用のホールが建てられるようになった。これは一種の劇場だったといえる。
そこには解剖される死体だけでなく、骨格標本などの解剖学の道具が設置されていた。医師や学者、芸術家たちたちが見学に集まってきた。ウェサリウスは解剖学上の知識を披瀝するとともに、解剖の華麗な手さばきを実演した。この画像のように、知識と手仕事の融合したショーを繰り広げたのである。
ウェサリウスの解剖学講義の様子
その結果、それまで理論医学より低く評価されていた外科医学の権威が上昇し、両者は対等になった。ガレノスのような権威的な書物からだけでなく、実際の自然(という書物)からも学ぶことの重要性がますます認知されるようになった。
1538年に、ヴェサリウスは『解剖学六図』を学生のために出版した。その後も、人間と動物の身体の構造を熱心に研究し続けた。その成果は1543年の『人体の構造に関する七つの本』として現れた。いわゆる『ファブリカ』である。それらの著作での解剖図そのものはヴェネチア派絵画の巨匠ティツィアーノの弟子が描いた。
科学革命への貢献:『ファブリカ』とガレノス
『ファブリカ』は中世医学の通説を覆した。古代ローマの医学者ガレノスの解剖学的な通説では、人間の身体は動物の身体の説明を流用する仕方で説明されていた。すなわち、猿などの動物の身体が人間のそれのモデルとみなされた。
これをウェサリウスは自らの解剖学研究により覆した。人体の性質は人体の研究によって解明され、その解剖学的な構造が明らかにされたのだった。ほかにも、心臓の構造などについて通説の誤りをただした。
中世医学では、ガレノスは「医者の王」と呼ばれていた。彼の権威はそれほど大きなものだった。ウェサリウスはこの権威を解剖学の領域で打ち崩した。それゆえ、同時期のコペルニクスと同様に、科学革命という新たな時代の旗手とみなされている。
また、17世紀後半のいわゆる古代人vs近代人論争(古典古代のヨーロッパ人と近代のヨーロッパ人のどちらが優れているかにかんする論争)では、ウェサリウスの解剖学は近代人がより優れている根拠として利用された。
ただし、ウェサリウス自身は自分が新たな時代を切り拓く意図には乏しかった。それまでの医学的伝統に基づきながらガレノス理論を修正するという姿勢だった。
科学革命以外への、学芸への影響
また、ヴェサリウスの正確な人体解剖図が普及することによって、人体のイメージに大きな変化が生じる。この大きな変化は芸術や文学にも広範な影響を与えることになる。たとえば、芸術では、画家が人体を描く際に、解剖学者の解剖図を参照することになった。
宮廷医師へ
その後、彼はボローニャやピサなどで公開での解剖を行い、名声を高めていった。その結果、1544年に、神聖ローマ皇帝カール5世の侍医に任命された。よって、ウェサリウスが解剖学者として活躍した期間は10年間にも満たなかった。その後も、カールの後継者たるスペイン王フェリペ2世の侍医となった。
1564年、エルサレムへの巡礼の旅の途上で没した。
ヴェサリウスと縁のある人物や事物
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
ウェサリウスの肖像画
ウェサリウスの主な著作・作品
『ファブリカ』(1543)
おすすめ参考文献
坂井建雄『図説 人体イメージの変遷 : 西洋と日本古代ギリシャから現代まで』岩波書店, 2014
久木田直江『医療と身体の図像学』泉書館, 2014
坂井建雄『謎の解剖学者ヴェサリウス』筑摩書房, 1999
Mark Jackson(ed.), The Oxford handbook of the history of medicine, Oxford University Press, 2013
Stephen N. Joffe, Andreas Vesalius : the making, the madman, and the myth, Persona Publishing, 2009