ジョン・ウィクリフはイギリスの神学者(1330 ー1384 )。当時の教皇や教会の教義への批判を行い、異端とされた。ロラード派などに大きな影響を与えながら、晩年まで著述活動に打ち込んだ。死後はコンスタンツ公会議で異端として断罪された。フスとともに、16世紀の宗教改革の先駆者として知られる。
この記事では、まずその生涯を確認し、次にその思想をみていく。ウィクリフとロラード派との異同についてもみていく。
ウィクリフ(John Wycliffe)の生涯
ウィクリフはイギリスのヨークシャー地方で生まれた。オックスフォード大学で神学や哲学を学んだ。聖職者の道に進んだ。学業も続け、1372年には、神学博士となった。
イギリス王への奉仕
1370年代に入ると、ウィクリフはイギリス国王のために働くようになった。その一つがブルッヘへの外交使節である。
背景として、12世紀にイギリス王ジョンが教皇インノケンティウス3世の封臣になったことで、イギリスは教皇に貢納金を支払うべき立場になった。
だが、イギリスはフランスとの百年戦争のために、これを重荷と感じた。そこで、イギリス議会ではこの貢納金をどうすべきかを論じた。ウィクリフは貢納金の支払いに否定的な立場をとった。
そこで、1374年、ベルギーのブルッヘに国王使節の一人として派遣された。これはローマ教皇の使節と、その支払について協議した。だが、たいした成果を挙げることができなかった。
教皇庁との対立
その後、ウィクリフはロンドンで聖職者として活動した。教会の裕福さなどを批判し、説教師として頭角を現した。
だが、このような活動はイギリス国内でまず問題視された。同時に、教皇庁から目をつけられることにもなり、両者の対立は深まっていった。
1377年には、教皇はウィクリフを逮捕し教皇庁へ移送するよう命令を発した。ウィクリフをカトリック教会の裁判所で裁くためである。イギリス王にはこれに協力するよう求めた。
同時に、オックスフォード大学にも協力するよう圧力をかけた。だが、結局これには成功しなかった。しかし、イギリス国内ではウィクリフの立場をめぐって対立が生じた。
教会大分裂のもとで
1378年、カトリック教会はいわゆる教会大分裂の時期に入った。すなわち、教皇を自認する人物が同時に二人以上登場することになった。
教皇は教会の頭とされていたので、本来は一人でなければならなかった。さもなければ、教会のトップが二人いることになり、教会統治に混乱を引き起こすことになると考えられた。
ウィクリフは教会大分裂の混乱のもと、『教会について』などを公刊し、自身の立場を明確に示した。教皇をそもそも反キリストだと批判し、明確な対決姿勢を示した。
ウィクリフの教会批判はイギリスの教会改革を主導していくかのようにみえた。だが、そうはならなかった。
晩年と死
そのような中で、1381年、イギリスでは農民による反乱が生じた。これはウィクリフに直接起因するものではなかった。だが、ウィクリフの思想が間接的な仕方でこの反乱に影響を与えたという指摘もある。
当時はウィクリフがこの反乱の原因の一つだと訴える者も多くいた。たとえば、当時ウィクリフと対立していたフランシスコ会などがそうだった。そのため、ウィクリフは逆風を受けるようになった。
ウィクリフはオックスフォードを去り、著述活動に打ち込んだ。1381年の『聖餐について』では、化体説(ミサの儀式でのパンとワインがキリストの肉と血に変化するという教義)を批判した。
この批判が引き金の一つとなって、1382年のブラックフライヤーズの教会会議において、彼の主張の多くが異端と断定された。教皇からローマへの出頭を求められた。
だが、ウィクリフは脳卒中で体に不自由があるなどの理由で断った。1384年に病没した。
死後の動向
ウィクリフの死後、ウィクリフの主張を異端として断罪する動きは続いた。
同時に、ウィクリフの主張はチェコのヤン・フスらに影響を与えた。1406年には、ウィクリフを称賛し支持するという文書がオックスフォード大学の名のもとに発行され、フス派に贈られた。
だが、これが本当に大学によるものかは疑わしい。同時に、オックスフォード大学では、1407年、ウィクリフの著作を読むことが禁止された。
コンスタンツ公会議での断罪:遺骸の火刑へ
この頃、カトリック教会では、上述の教会大分裂を終わらせるために、コンスタンツ公会議が開催された。そこでは同時に、ウィクリフやフスという「異端」の問題も扱われることになった。
1412年、ウィクリフの著作が公会議で断罪され、ウィクリフは異端と認定された。その後、フスもまたウィクリフとの関連で異端として断罪された。ウィクリフの遺骸を墓から掘り起こすよう命じられた。これは当時は無視された。
だが、1428年になってから実行された。遺骸は火刑に処され、灰はスウィフト川に撒かれた。なお、フスもまた火刑に処された。
ウィクリフ主義の思想:ルターの宗教改革の先駆者として
ウィクリフはフスとともに、しばしば、1517年の宗教改革の先駆者とみなされてきた。そこで、宗教改革と関連のあるウィクリフの思想をみてみよう。
ウィクリフは広い意味での聖書主義だった。キリスト教の信仰や教会に関するあらゆる事柄は聖書に基づかなければならないと論じた。
カトリックへの批判:化体説や告解
そのうえで、ウィクリフはカトリックの伝統的な教義を批判した。まず、上述のように、化体説への批判が挙げられる。聖書や教父の著作を用いて、化体説が聖書に基づかないと論じた。
化体説はミサの宗教儀式の中心に関わる問題であった。よって、その批判がとくに教皇庁に問題視された。ちなみに、ウィクリフの批判が触媒となって、化体説がコンツタンツ公会議で定式化されることになる。
さらに、ウィクリフは告解(罪の告白)の秘跡という宗教儀式を批判した。これはカトリック教会が定める7つの秘跡の一つである。 1215年のラテラノ公会議で、すべてのキリスト者に司祭への年1回の告解を義務づけていた。
だが、ウィクリフは告解での悔悛者が本当に悔悛しているかどうかを知り、罪を赦すことができるのは神だけであると主張した。 よって、神にのみ告解をすればよい。その結果、聖職者への告解は不要だとした。
むしろ、告解の儀式は聖書に記述がなく、原始教会でも行われていなかった。よって、中世の教会でつくられた儀式にすぎない、と。
ウィクリフは修道会への批判も行った。ウィクリフからすれば、神が定めたルールは聖書に十分に示されている。
だが、修道会は神のために生きるといって、聖書のルールとは別個のルールを自ら立て、それに従う。この修道会のルールは余分なものであり、権威がない、と。このような批判は当然ながら修道会から反発を受けた。
表面的に見れば、以上のような批判は16世紀の宗教改革でもみられることになる。また、ウィクリフの著作は宗教改革の初期に活発に印刷され、普及したので、一定の影響を与えたといえる。
ロラード派との関係
ウィクリフといえば、ロラード派が重要である。ながらく、ウィクリフの信奉者がロラード派だと考えられてきた。
だが、近年の研究では、この見方は修正されてきている。たしかに、ウィクリフはロラード派の信仰の主要な源泉の一つであるが、他にも重要な源泉がある。そのため、ウィクリフとロラード派の関係はより複雑である。
そもそも、ロラード派という呼び名はその敵対者からつけられた名称であり、レッテルであった。14世紀後半からイギリスで、特定の神学者や説教者を異端者として誹謗するために使われ始めた。
この呼び名が、既存のイギリスの教会や王制への反対派にたいして用いられるようになった。王権と教会が脅威とみなす者にたいしてである。
ロラード派の人々はこう名指しされる中で、自分たちの信仰の特徴を考え始めた。そのさいに、ウィクリフの思想が大きな助けとなり、そこから大きな影響を受けた。たとえば、化体説や告解、修道会への批判でそうだった。
ロラード派との違い
ウィクリフとロラード派は多くの点で一致した。だが、重要な違いもあった。
まず、聖図像への批判である。中世キリスト教の中心的特徴は聖人崇拝であった。キリストという神以外にも、聖母マリアや聖セバスティアンなどの聖人を崇拝するのである。そのために、聖像や聖画を多く制作した。これはキリスト教文化の主流を構成している。
ウィクリフは聖画にはあまり関心を抱かなかった。だが、ロラード派は大いに批判した。たとえば、聖像の崇拝は偶像崇拝だと批判した。さらに、聖人の関連品の崇拝(聖遺物の崇拝)や巡礼を聖書に基づかないとして批判した。
ロラード派は言葉による批判だけでなく、図像破壊運動をも行った。聖人崇拝や図像の使用は宗教改革の中心的問題となっていく。よって、この点での違いはそれほど重要なものだった。
新約聖書の翻訳
両者の関係で重要なものとして、新約聖書の英語訳がある。1382年から1395年にかけて、少なくとも2種類の英訳聖書が作られた。 ウィクリフがこれに直接かかわったのかが一つの大きな論点となっている。
上述のように、ウィクリフは広い意味で聖書主義者である。聖職者や学者だけでなく、一般の人々も聖書を読めるようにすべきと考えていた。そのため、ウィクリフの思想が聖書の英訳に一定の影響を与えたといえる。
だが、ウィクリフ自身が英訳を少しでも行ったかについては、議論が割れている。英訳事業の統括者だったという意見や、ほぼ直接関与しなかったという意見もある。
ウィクリフがそれに関与しなかったとしても、英訳はロラード派にとって重要な要素となった。聖書研究や神学的議論に英語を使用することが、ロラードの中心的な特徴とみなされるようになったのである。
その影響
その結果、そもそも聖書の英訳や聖書研究の英語使用が正当なのかが論争されるようになった。この点は現代人にはピンとこないかもしれない。聖書にかんしていえば、当時はラテン語で書かれていた。
中世では、ラテン語は神聖な言語だと考えられた。英語やフランス語などの俗語に比べて、言語としての格が高いと思われていた。
そのため、聖書はラテン語で読むのが当然だった。英語のような卑しい言語に聖書を翻訳するのは、神の言葉を卑しいものにするかのごとく考えられた。
だが、ウィクリフやロラード派は一般人も神の言葉を直接読めるようになるべきだとした。よって、聖書の英訳を拒絶することは、教会が神の知恵を一般人にたいして隠し、それを独占するための工作だと、彼らは批判した。
ウィクリフと縁のある人物
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ウィクリフの肖像画
ウィクリフの主な著作・作品
『教会について』(1379)
『トリアログス』(1383)
『聖餐について』(1381)
おすすめ参考文献
千葉眞編『平和の政治思想史』おうふう, 2009
Ian Christopher Levy(ed.), A companion to John Wyclif : late medieval theologian, Brill, 2011
David Bagchi(ed.), The Cambridge companion to Reformation theology, Cambridge University Press, 2004