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与謝野晶子とは:一流の女流歌人は戦前の社会問題にどう向き合ったか

 与謝野晶子は明治・大正・昭和を代表する歌人(1878―1942)。若い頃には歌集『みだれ髪』を発表し、一躍歌人としての地位を築いた。明治の浪漫主義の代表的な歌人の一人である。短歌以外にも、日露戦争で詩「君死にたまふことなかれ」を発表し、物議を醸した。ヨーロッパでは大変興味深い体験をした。他にも評論や古典研究などに勤しみ、『源氏物語』を現代語訳した。 なお、以下では与謝野晶子の肉声や肖像画も楽しめます。

与謝野晶子(よさのあきこ)の生涯

 与謝野晶子は大阪府の堺の老舗菓子屋の駿河屋(するがや)に生まれた。旧姓は鳳(ほう)であり、本名は「しょう」である。若い頃から平安時代の文学や歴史に親しんだ。堺女学校を卒業した。

 歌人としての活躍:『みだれ髪』

 晶子は実家の商いを手伝いながら、詩や短歌の制作を始めた。関西青年文学会の『よしあし草』に投稿するようになった。

 転機は与謝野鉄幹との出会いだった。1899年、与謝野鉄幹が新詩社を創立し、1900年に文芸雑誌『明星』を発行し始めた。晶子はその社友となり、そこに短歌を発表した。同年、鉄幹が大阪で講演を行った際に、晶子と出会った。晶子は鉄幹に心を奪われ、短歌の制作に精を出した。

 1901年、晶子は親の制止などをかまわずに、東京の鉄幹のもとに移った。同年、歌集『みだれ髪』を発表した。鉄幹への激しい情熱や官能を大胆に歌った。当時の日本の保守的な女性観のもとでは、物議を醸すことになった。

 晶子は鉄幹と結婚した。主に『明星』で詩や評論、小説などを発表した。平安時代の古典文学の研究を進め、1921年には紫式部の『源氏物語』を現代語訳し、公刊した。これは森鴎外などに励まされて実現した。

 森鴎外がこの新訳の序文を担当した。本書の公刊を祝して、こう書いている。森鴎外は『源氏物語』の現代語訳が個人的に欲しかった。とはいえ、稚拙な訳であれば、欲しくはない。

 だが、「そのわたくしでもこの本には満足せずにはいられません。なぜと申しますに、源氏物語を翻訳するに適した人を、わたくし共の同世の人の間に求めますれば、与謝野晶子さんに増す人はあるまいと思いますからでございます。源氏物語がCongnialな人の手で訳せられたのだと思いますからでございます」。ただし、与謝野晶子はこの自身の訳の出来栄えに納得できず、のちに改訳を試みることになる。

 日露戦争

 この頃、日本は朝鮮や中国への進出を図っていた。1894−95年の日清戦争で勝利し、下関条約で中国や朝鮮での支配地を広げた。だが、ロシアなどの三国干渉により、中国の遼東半島を返還した。日本は臥薪嘗胆の精神で、ロシアとの戦いに備えた。1904年、ついに日露戦争が始まった。

 日露戦争を後押しする世論の声が大きかった。だが、晶子は出征する弟を想い、1904年に詩「君死にたまふことなかれ」を発表した。これは物議を醸した。

ヨーロッパ旅行へ

 1912年、すでにヨーロッパに滞在している夫を追って、晶子はヨーロッパへと旅立った。その滞在記はなかなか興味深いものである。くわしくは、次の記事を参照。

 第一次世界大戦

 1914年から、第一次世界大戦が始まった。ドイツとオーストリアがイギリスやフランスとロシアと戦闘を開始した。日本やアメリカもまたイギリス側で参戦した。1918年にドイツ側が降伏し、1919年のヴェルサイユ条約で和平が結ばれた。ドイツ側には莫大な賠償金などが課せられることになった。
 ヴェルサイユ条約の講和条件について、与謝野晶子は「非人道的な講和条件」のなかで痛烈な批判を展開している。与謝野はすでにアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンの平和14か条を読んでいた。

 民族自決と国際連盟の樹立を訴えた有名な14か条である。そのため、今回の講和条件が従来のものとは異なるものになると期待していた。すなわち、戦勝国が復讐心や征服欲によって戦敗国を圧伏させるようなものではなく、愛と正義と自由と平等にもとづくようなものになる、と。
 ところが、与謝野晶子からすれば、「連合国に依って提示された講和条件は、世界に文字があって以来どの国の書物にも書かれたことのない、人間の持っている極度の復讐心と、極度の貪欲心と、極度の虐殺思想とをさらけ出したもの」だった。

 与謝野は問う。「敵を愛せよという基督教の思想は何処どこへ行ったか。仏蘭西の自由、平等、博愛の三大思想は何処へ行ったか。英国流の紳士的道徳と米国流の人道思想とは何処へ行ったか。この講和条件の中には、戦争中に歓迎された露西亜流の無併合、無賠償説の影響のないのは勿論、ウィルソンの堂々たる十四カ条の痕跡さえ留めていないではありませんか」。また、日本の道徳は西洋のこれらの道徳とは異なるので、今回の講和条件をしっかりと批判すべきだと与謝野は世論に訴えた。

 婦人解放運動

 だが晶子は筆を折らず、評論などを通して社会への働きかけを続けた。当時の女性解放運動で有名な平塚らいてうとは、女性のあり方をめぐって論争を繰り広げた。教育活動にも熱心だった。

 その後は『源氏物語』の改訳に取り組んだ。これが1939年に公刊された。与謝野はそのあとがきで、改訳公刊の理由を簡単に説明している。与謝野は以前の自身の現代語訳本では粗雑な解釈と訳文をしたと恥じていた。

 その訳本で序文を担当した森鴎外などへの罪の責めを感じていた。そのため、彼らへの罪滅ぼしと謝意を示すために、改訳を完成させたのである。1942年に没した。

『みだれ髪』の主だった短歌

臙脂紫

夜のちやうにささめき尽きし星の今を下界げかいの人の鬢のほつれよ

歌にきけな誰れ野の花に紅きいなむおもむきあるかなはるつみもつ子

かみ五尺ときなば水にやはらかき少女をとめごころは秘めて放たじ

血ぞもゆるかさむひと夜の夢のやど春を行く人神おとしめな

椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬいろもゝに見る

その子二十はたち櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな

堂の鐘のひくきゆふべを前髪の桃のつぼみにきやうたまへ君

紫にもみうらにほふみだればこをかくしわづらふ宵の春の神

紫の濃き虹説きしさかづきにうつる春の子眉毛まゆげかぼそき

紺青こんじやうを絹にわが泣く春の暮やまぶきがさねとも歌ねびぬ

蓮の花船

漕ぎかへる夕船ゆふぶねおそき僧の君紅蓮ぐれんや多きしらはすや多き

あづまやに水のおときく藤の夕はづしますなのひくき枕よ

御袖ならず御髪みぐしのたけときこえたり七尺いづれしら藤の花

夏花のすがたは細きくれなゐに真昼まひるいきむの恋よこの子よ

肩おちてきやうにゆらぎのそぞろ髪をとめ有心者うしんじや春の雲こき

うながされてみぎはやみに車おりぬほの紫の反橋そりはしふぢ

われとなくをさの手とめしかどうた姉がゑまひの底はづかしき

ゆあがりのみじまひなりて姿見に笑みし昨日きのふの無きにしもあらず

人まへを袂すべりしきぬでまり知らずと云ひてかかへてにげぬ

ひとつはこにひひなをさめてふたとぢて何となきいき桃にはばかる

ほの見しは奈良のはづれの若葉宿わかばやどうすまゆずみのなつかしかりし

白百合

月の夜のはすのおばしま君うつくしうら葉の御歌みうたわすれはせずよ

たけの髪をとめ二人ふたりに月うすき今宵しらはす色まどはずや

荷葉はすなかば誰にゆるすのかみ御句みく御袖みそで片取かたとるわかき師の君

おもひおもふ今のこころに分ち分かず君やしら萩われやしろ百合

三たりをば世にうらぶれしはらからとわれ先づ云ひぬ西の京の宿

今宵こよひまくら神にゆづらぬやは手なりたがはせまさじ白百合の夢

夢にせめてせめてと思ひその神に小百合の露の歌ささやきぬ

次のまのあま戸そとくるわれをよびて秋の夜いかに長きみぢかき

ひとまおきてをりをりもれし君がいきその夜しら梅だくと夢みし

いはず聴かずただうなづきて別れけりその日は六日二人ふたり一人ひとり

はたち妻

露にさめてひとみもたぐる野の色よ夢のただちの紫の虹

やれ壁にチチアンが名はつらかりき湧く酒がめを夕に秘めな

何となきただ一ひらの雲に見ぬみちびきさとし聖歌せいかのにほひ

淵の水になげし聖書を又もひろひそら仰ぎ泣くわれまどひの子

聖書だく子人の御親みおやの墓に伏して弥勒みろくの名をば夕に喚びぬ

神ここに力をわびぬときべにのにほひきようがるめしひの少女をとめ

痩せにたれかひなもる血ぞ猶わかき罪を泣く子と神よ見ますな

おもはずや夢ねがはずや若人わかうどよもゆるくちびる君にうつらずや

君さらば巫山ふざの春のひと夜妻よづままたの世までは忘れゐたまへ

あまきにがき味うたがひぬ我を見てわかきひじりの流しにし涙

歌に名はあひはざりきさいへ一夜ひとよゑにしのほかの一夜とおぼすな

舞姫

人に侍る大堰おほゐの水のおばしまにわかきうれひの袂の長き

人にそひて今日けふ京の子の歌をきく祇園ぎをん清水きよみづ春の山まろき

くれなゐの襟にはさめる舞扇まひあふぎ酔のすさびのあととめられな

桃われの前髪ゆへるくみ紐やときいろなるがことたらぬかな

浅黄地に扇ながしの都染みやこぞめ九尺のしごき袖よりも長き

四条ばしおしろいあつき舞姫のぬかささやかに撲つ夕あられ

さしかざす小傘をがさに紅き揚羽蝶あげはてふ小褄とる手に雪ちりかかる

舞姫のかりね姿ようつくしき朝きやうくだる春の川舟

紅梅に金糸のぬひの菊づくし五枚かさねし襟なつかしき

舞ぎぬの袂に声をおほひけりここのみ闇の春の廻廊わたどの

春思

いとせめてもゆるがままにもえしめよ斯くぞ覚ゆる暮れて行く春

春みじかし何に不滅ふめつの命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ

むろに絵の具かぎよる懸想けさうの子太古の神に春似たらずや

そのはてにのこるは何と問ふな説くな友よ歌あれつひの十字架

わかき子が胸の小琴のを知るや旅ねの君よたまくらかさむ

松かげにまたも相見る君とわれゑにしの神をにくしとおぼすな

きのふをば千とせの前の世とも思ひ御手なほ肩に有りとも思ふ

歌は君酔ひのすさびと墨ひかばさても消ゆべしさても消ぬべし

神よとはにわかきまどひのあやまちとこの子の悔ゆる歌ききますな

湯あがりを御風みかぜめすなのわが上衣うはぎゑんじむらさき人うつくしき

しら綾に鬢の香しみし夜着よぎの襟そむるに歌のなきにしもあらず

夕ぐれの霧のまがひもさとしなりき消えしともしび神うつくしき

与謝野晶子と縁のある人物

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与謝野晶子の肖像写真

与謝野鉄幹 利用条件はウェブサイトにて確認


出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

与謝野晶子の記録された肉声を無料で聞けます

 与謝野晶子の肉声を国立国会図書館のデジタルライブラリで聞くことができます。与謝野晶子が自作の短歌を詠んでいます(https://dl.ndl.go.jp/pid/3571566)。

与謝野晶子の代表的な作品

『みだれ髪』(1901)
『小扇』(1904)
『佐保姫(さおひめ)』(1909)
『一隅より』(1911)
『青海波(せいがいは)』(1912)
『火の鳥』(1919)
『激動の中を行く』(1919)
『人間礼拝』(1921)
『流星の道』(1924)
『心の遠景』(1928)
『晶子詩篇全集』(1929)
『白桜集』(1942)

おすすめ参考文献と青空文庫

入江春行『晶子の周辺』洋々社、1984

福田清人『与謝野晶子』清水書院, 2017

松村由利子『ジャーナリスト与謝野晶子 』短歌研究社, 2022

※与謝野晶子の多くの作品は、青空文庫にて無料で読めます(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person885.html_。

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