森鴎外

 森鴎外は明治から昭和にかけて活躍した軍医で文学者(1862―1922)。本名は林太郎。文人としては『舞姫』などの小説や、文芸誌を創刊してのジャーナリズム活動など、多面的に活躍した。同時に、これからみていくように、実は軍医としてもエリート街道を駆け上っていく。

森鴎外(もりおうがい)の生涯

 森鴎外は現在の島根県の石見で医者の家庭に長男として生まれた。本名は林太郎。藩校で漢学を学び、父のもとでオランダ語を学んだ。1872年に上京し、進文学舎でドイツ語などを学んだ。また、親戚で哲学者の西周と交流をもった。

 1874年、鴎外は東京医学校予科に入った。1877年には東京大学医学部の本科生となり、1881年に卒業した。その後、軍医として陸軍省に入った。

 軍医としてドイツ留学へ

 鴎外は早くからヨーロッパへの留学を希望していた。これがかない、1884年、ドイツへ派遣された。ライプツィヒ大学やミュンヘン大学で学んだ。さらに、1887年、ベルリン大学に移った。

 この頃、内務省の事業により、北里柴三郎が細菌学の研究で著名な細菌学者コッホのもとで研究していた。鴎外は同様にコッホに師事した。同時に、人文学にも親しんだ。

 軍医および文学者としての活発な活動:『舞姫』

 1888年、鴎外は帰国した。陸軍軍医学校で教官になった。同時に、文筆活動にも打ち込んだ。文学では、『しがらみ草紙』を創刊した。文学者の坪内逍遥らと論争を繰り広げた。医学に関しては、1889年、『東京医事新誌』の主筆となった。

 さらに、自ら『衛生新誌』を創刊した。1890年、『東京医事新誌』から離れ、『医事新論』を創刊し、これを『衛生新誌』と統合して『衛生療病志』とした。

 さらに、ドイツでの経験をもとにした著作を公刊していった。1890年には、代表作の『舞姫』などを世に送り出した。また、ハルトマンの美学にかんする『審美論』を公刊した。若くして文名を高めた。1894年の日清戦争に出征した。このときに、上述の諸雑誌を廃刊とした。

 日清戦争から帰国後、鴎外は再びジャーナリズム活動に勤しんだ。文芸では『めさまし草』を、医学では『公衆医事』を創刊した。だが、軍医でありながらの文筆活動は陸軍上層部に問題視された。そのため、1899年、鴎外は小倉の部隊に左遷された。以後、日露戦争終結まで、鴎外は鳴りを潜めることになる。

 世紀転換期の充電期間

 この時期に、鴎外はデンマーク作家のアンデルセンの『即興詩人』を翻訳するなど、文学活動を続けていた。1902年、第一師団軍医部長に任命され、東京に戻った。1904年、日本は朝鮮や中国での権益をめぐってロシアと戦争を開始した。

 この日露戦争には、鴎外は第二軍軍医部長として出征した。軍務に服する傍ら、詩歌の制作をおこなった。戦争終結で帰国した後も、詩歌を続けた。

 文学活動の再開へ

 1907年、鴎外は陸軍省医務局長に任命された。これを機に、文筆活動を本格的に再開した。小説家として名声を確立していた夏目漱石に刺激されて、『青年』などの現代小説を公刊した。反自然主義の巨匠として知られるようになる。

 1912年には、明治天皇の崩御と乃木希典将軍の殉死をうけて、歴史小説『興津弥五右衛門(おきつやごえもん)の遺書』を公刊した。

 『高瀬舟』

 歴史小説でありながらも安楽死にかんする問題を先駆的に扱った『高瀬舟』を公刊した。安楽死は当時のヨーロッパで議論の的になっていたトピックである。医師としてのキャリアを積んでいたからこそ、鴎外はこのトピックを小説の題材に利用することができた。しかも、最新のヨーロッパの話題を日本の歴史小説に組み合わせたところが面白い。

『山椒大夫』

 1915年、鴎外は『山椒大夫』を公刊した。これは浄瑠璃のかたちで流布していた山椒大夫伝説に基づく小説である。安寿(あんじゅ)と弟の厨子王(ずしおう)とその母は父を訪ねるために旅に出た。

 だが、道中で人買いに騙され、山椒大夫に売り渡される。安寿は厨子王を山椒大夫の囚われの身から解放したが自身は逃げられず、自殺する。厨子王はのちに国守となり、人身売買を禁止して、母を探す旅に出る。鴎外の代表作の一つである。
 鴎外は「歴史其儘と歴史離れ」の中で、『山椒大夫』の制作秘話を語っている。かつて、鴎外はなにかの史料に基づいて小説を書くときは、事実を自由に取捨していた。だが、次第にそれをやめるようになった。なぜかというと、史料調査によって判明した「自然」を尊重したいと思うようになったからである。

 また、現在の作家が実際の生活をありのままに書くのだから、鴎外が過去についてもありのまま書いてもよいはずだと思ったからである。しかし、鴎外はそのようにして、「知らず識らず歴史に縛られた。わたくしは此縛の下に喘ぎ苦んだ」。そのため、そこから脱しようと考えた。
 そこで執筆したのが『山椒大夫』である。これについては、鴎外は山椒大夫伝説の大筋を知っていた。それ以上詳しく調べることなく執筆し始めた。ところが、鴎外は歴史の「自然」をなかなか蔑ろにできなかった。

 というのも、上述のように、鴎外はこの時期には歴史小説を書き慣れていたためである。また、鴎外は学者肌でもあった。そのため、「歴史上の人物を扱ふ癖の附いたわたくしは、まるで時代と云ふものを顧みずに書くことが出来ない」ようになっていることに気がついた。

 そのため、結局のところ、山椒大夫伝説に合致するよういろいろと史料を調べて、執筆することになった。「兎に角わたくしは歴史離れがしたさに山椒大夫を書いたのだが、さて書き上げた所を見れば、なんだか歴史離れがし足りない」と感じるのだった。

 晩年

 1916年には、鴎外は陸軍省を退官した。軍医総監医務局長にまで登りつめており、軍医としても大成功を収めた。同年、『渋江抽斎』を公刊し、史伝のジャンルに移った。

 1917年、鴎外は宮内省の帝室博物館総長と図書頭に任命された。1919年、に帝国美術院の初代院長となった。文化人として名声を確立していただけでなく、政治経済についての諮問も受けるようになっていた。

 1921年、鴎外は「古い手帳から」の中で、ヨーロッパの古典古代や中世にかんするメモを公刊した。そこでは、プラトンやアリストテレス、ストア主義やキリストと使徒、アウグスティヌスやカール大帝について簡単に論じられている。

 ただし、その主軸はこの時期の日本で影響力を強めていた共産主義などとの関係にある。政治・経済への諮問を受ける中で勉強してつくったメモであろう。それぞれの人物やその理論の全体にかんする鴎外の考えは詳細には示されておらず、断片的である。
 たとえば、鴎外はプラトンについては『国家』を典拠にして述べている。プラトンは理想国家を三つの部分に分けている。上部は哲学者が占め、中部は戦士が占め、下部は労働者が占める。

 プラトンは上部と中部では金錢と婦女の私有を禁止したので、ここでは共産主義である。だが下部では非個人主義で非民主主義である。「概括して言へば Platon は貴族主義者である、非平等主義者である」。
 鴎外はキリストについて、富を忌避すべきと言ったが共産主義者ではないという。たとえば、『ルカ書』の「 貧しいものは幸いかな」という聖句を挙げながら、鴎外はキリストが資産家の味方ではなかったという。キリストの教えでは、貧しさが道を助け、富が道を妨げる。

 それでも、キリストは富を廃滅すべきとはいわなかった。キリストにおいては、「その富に對する反抗は手段であつて目的ではない」。そのため、キリストは共産主義を説かなかった、と。ちなみに、この議論はフランスの宗教学者エルネスト・ルナンの支持者の議論を念頭に置いていると鴎外は付け加えている。

 1922年、病没した。

森鴎外の名作を紹介

 『高瀬舟』の冒頭部分

 高瀬舟たかせぶねは京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島ゑんたうを申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞いとまごひをすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであつた。それを護送するのは、京都町奉行の配下にゐる同心で、此同心は罪人の親類の中で、主立つた一人を大阪まで同船させることを許す慣例であつた。これは上へ通つた事ではないが、所謂大目に見るのであつた、默許であつた。
 當時遠島を申し渡された罪人は、勿論重い科を犯したものと認められた人ではあるが、決して盜をするために、人を殺し火を放つたと云ふやうな、獰惡だうあくな人物が多數を占めてゐたわけではない。高瀬舟に乘る罪人の過半は、所謂心得違のために、想はぬとがを犯した人であつた。有り觸れた例を擧げて見れば、當時相對死と云つた情死を謀つて、相手の女を殺して、自分だけ活き殘つた男と云ふやうな類である。
 さう云ふ罪人を載せて、入相いりあひの鐘の鳴る頃に漕ぎ出された高瀬舟は、黒ずんだ京都の町の家々を兩岸に見つつ、東へ走つて、加茂川を横ぎつて下るのであつた。此舟の中で、罪人と其親類の者とは夜どほし身の上を語り合ふ。いつもいつも悔やんでも還らぬ繰言である。護送の役をする同心は、傍でそれを聞いて、罪人を出した親戚眷族けんぞくの悲慘な境遇を細かに知ることが出來た。所詮町奉行所の白洲しらすで、表向の口供を聞いたり、役所の机の上で、口書くちがきを讀んだりする役人の夢にも窺ふことの出來ぬ境遇である。

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 『舞姫』の冒頭

 石炭をばや積み果てつ。中等室のつくゑのほとりはいと静にて、熾熱燈しねつとうの光の晴れがましきもいたづらなり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌カルタ仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人ひとりのみなれば。
 五年前いつとせまへの事なりしが、平生ひごろの望足りて、洋行の官命をかうむり、このセイゴンの港までし頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとしてあらたならぬはなく、筆に任せて書きしるしつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日けふになりておもへば、をさなき思想、身のほど知らぬ放言、さらぬも尋常よのつねの動植金石、さては風俗などをさへ珍しげにしるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。こたびは途に上りしとき、日記にきものせむとて買ひし冊子さつしもまだ白紙のまゝなるは、独逸ドイツにて物学びせしに、一種の「ニル、アドミラリイ」の気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。
 げにひんがしかへる今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそなほ心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ変り易きをも悟り得たり。きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感触を、筆に写してたれにか見せむ。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。

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 『山椒大夫』の冒頭部分

 越後えちご春日かすがを経て今津へ出る道を、珍らしい旅人の一群れが歩いている。母は三十歳をえたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた同胞はらから二人を、「もうじきにお宿にお着きなさいます」と言って励まして歩かせようとする。二人の中で、姉娘は足を引きずるようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、折り折り思い出したように弾力のある歩きつきをして見せる。近い道を物詣ものまいりにでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群れであるが、かさやらつえやらかいがいしい出立いでたちをしているのが、誰の目にも珍らしく、また気の毒に感ぜられるのである。
 道は百姓家のえたり続いたりする間を通っている。砂や小石は多いが、秋日和あきびよりによく乾いて、しかも粘土がまじっているために、よく固まっていて、海のそばのようにくるぶしを埋めて人を悩ますことはない。
 藁葺わらぶきの家が何軒も立ち並んだ一構えがははその林に囲まれて、それに夕日がかっとさしているところに通りかかった。
「まああの美しい紅葉もみじをごらん」と、先に立っていた母が指さして子供に言った。
 子供は母の指さす方を見たが、なんとも言わぬので、女中が言った。「木の葉があんなに染まるのでございますから、朝晩お寒くなりましたのも無理はございませんね」
 姉娘が突然弟を顧みて言った。「早くお父うさまのいらっしゃるところへきたいわね」

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 『ヰタ・セクスアリス』の冒頭

 金井しずか君は哲学が職業である。
 哲学者という概念には、何か書物を書いているということが伴う。金井君は哲学が職業である癖に、なんにも書物を書いていない。文科大学を卒業するときには、外道げどう哲学と Sokrates 前の希臘ギリシャ哲学との比較的研究とかいう題で、余程へんなものを書いたそうだ。それからというものは、なんにも書かない。
 しかし職業であるから講義はする。講座は哲学史を受け持っていて、近世哲学史の講義をしている。学生の評判では、本を沢山書いている先生方の講義よりは、金井先生の講義の方が面白いということである。講義は直観的で、或物の上に強い光線を投げることがある。そういうときに、学生はいつまでも消えない印象を得るのである。ことに縁の遠い物、何の関係もないような物をりて来て或物を説明して、聴く人がはっと思って会得するというような事が多い。Schopenhauer は新聞の雑報のような世間話を材料帳にめて置いて、自己の哲学の材料にしたそうだが、金井君は何をでも哲学史の材料にする。真面目まじめな講義の中で、その頃青年の読んでいる小説なんぞを引いて説明するので、学生がびっくりすることがある。
 小説は沢山読む。新聞や雑誌を見るときは、議論なんぞは見ないで、小説を読む。しかしし何と思って読むかということを作者が知ったら、作者は憤慨するだろう。芸術品として見るのではない。金井君は芸術品には非常に高い要求をしているから、そこいら中にある小説はこの要求を充たすに足りない。金井君には、作者がどういう心理的状態で書いているかということが面白いのである。それだから金井君の為めには、作者が悲しいとか悲壮なとかいうつもりで書いているものが、きわめ滑稽こっけいに感ぜられたり、作者が滑稽の積で書いているものが、かえって悲しかったりする。

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森鴎外の肖像写真

森鴎外 利用条件はウェブサイトにて確認

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

森鴎外の代表的な作品・著作

『舞姫』(1890)
『うたかたの記』(1890)
『審美論』(1892)
『ヰタ・セクスアリス』 (1909)
『青年』(1910)
『興津弥五右衛門の遺書』(1912)
『山椒大夫』 (1915)
『高瀬舟』 (1916)
『渋江抽斎(しぶえちゅうさい)』(1916)

おすすめ参考文献と青空文庫


中島国彦『森鷗外 : 学芸の散歩者』岩波書店, 2022

福田清人『森鴎外』清水書院, 2016

西成彦『 世界文学のなかの『舞姫』』みすず書房, 2009

※森鴎外の多くの作品は、青空文庫にて無料で読めます(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person129.html_。

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