ロレンツォ・ヴァッラは15世紀イタリアの人文学者(1407ー1457)。イタリア・ルネサンスの代表的人物の一人として知られる。コンスタンティヌスの寄進状を偽書として論駁し、ラテン語の改革を行い、聖書の改訂を行った。中世の様々な権威に痛烈な批判を行ったので、生涯にわたって多くの敵をつくったが、後世への影響も大きい。
ヴァッラ(Lorenzo Valla)の生涯
ヴァッラはローマで、法律家の家に生まれた。20代なかばまでは、ラテン語の修辞学などを学びながら、ローマで育った。
パヴィア大学にて
その後、イタリアの北部へ移動し、1429年からパヴィア大学で修辞学を教えた。この時期に、エピクロス主義的な『快楽について』を執筆した。
ヴァッラは法学者バルトルスをラテン語の使用について批判した。これが大きな問題を引き起こした。
バルトルス批判
その背景として、バルトルスは14世紀イタリアの代表的なローマ法学者である。古代ローマの法律を自分たちの時代に適用しようと試みた。学問的に成功するのみならず、実社会にも一定の影響を与えた。
当時はローマ法学者といえば誰よりもまずバルトルスの名前が挙がるほど、法学者の間では権威的だった。今日においても、中世ローマ法の代表者として知られているほどである。
しかも、当時のパヴィア大学では、バルトルスの愛弟子のバルドゥスが一定期間教鞭をとっていた。バルドゥスもまたバルトルスの死後、ローマ法の権威としてヨーロッパ中で名声を確立した人物だった。
ヴァッラはこのバルトルスがラテン語を正確に理解できていないと批判した。ローマ法はラテン語で書かれている。よって、バルトルスがラテン語をまともに理解できていないならば、彼のローマ法理論はどれだけの価値があることになるのか。
かくして、パヴィア大の法学部とヴァッラの間で軋轢が生じた。1433年、ヴァッラは当地を去った。
アラゴン王の宮廷へ
当時、アラゴン王のアルフォンソ5世はナポリの王になろうとしてイタリア進出を図っていた。アラゴン王国はイベリア半島にあり、今日のスペインの一部である。だが、中世においては、地中海をわたって、イタリアのナポリやシチリアへの進出を試みる国だった。
ナポリ進出で、アラゴンはローマ教皇らと対立した。ヴァッラはアルフォンソ5世の気に入り、13年間はその宮廷で活動することになる。
「コンスタンティヌスの寄進状」への批判
アラゴン王のもとで、ヴァッラの著作の中でも特に有名な「コンスタンティヌスの寄進状を論ず」(1440)という論文を執筆した。
「コンスタンティヌスの寄進状」とは
そもそも、「コンスタンティヌスの寄進状」とは、古代ローマ皇帝のコンスタンティヌスが当時の教皇に対して、ローマの支配権を寄進することを明言した文書を指す。もしこれが本当ならば、ローマ教皇はローマの世俗的な君主でもあることになる。
さらに、中世において、この文書は拡大解釈された。すなわち、教皇がヨーロッパの、あるいは世界全体の皇帝であることの根拠の一つとして利用された。教皇の敵対者たちは、この文書が教皇の世俗的野心の象徴だと批判していた。
ヴァッラの批判
ヴァッラが上述の論文で行ったのは、この文書が偽書だと論証したことだった。ラテン語の言語や修辞学の面で分析した場合、この文書がコンスタンティヌスの時代に作成された可能性はない、と。
ヴァッラの主張はここで終わらなかった。すなわち、「コンスタンティヌスの寄進状」が偽書であることを示すだけでは終わらなかった。ヴァッラはさらに歴代の教皇たちへの次のような批判を展開する。
教皇たちは都市ローマを支配する正統な権利を持たなかったにもかかわらず、これまでローマへの権威を事実として主張し、行使してきた。どうしてそんなことができるのだろうか。
教皇がどれほど長い間ローマを事実として支配したところで、正当な支配権を得られることにはならない。
一般に、土地の占有を続ければ所有権を得られるものだが(時効取得)、不正な占有ならばそのような権利を得ることは出来ない。よって、教皇はいまでもローマの正統な支配者ではない、と。
その影響
当然ながら、この論文は教皇やその支持者を怒らせた。だが、アルフォンソ5世は教皇と戦争中であったので、ヴァッラの論文はアラゴン王の役に立った。ただし、ヴァッラの論証によって、「コンスタンティヌスの寄進状」が偽書であることはすぐさまヨーロッパ諸侯によって受け入れられたわけではなかった。なぜか。
これは政治的利害に直接関わる文書だったので、教皇庁の支持者によってなかなか偽書だと認められなかった。
特に、中世や近世は教皇がカトリック教会のトップとしてのみならず、教皇国の世俗君主としても活発だった時期である。教皇はイタリア半島だけでなく、国際政治での主要な政治プレーヤーの一人だった。
コンスタンティヌスの寄進状はこのような教皇の政治的利害に関わる重要な、ある種の公文書の一つだった。それだけ、批判と擁護がしばしばみられた。
教皇との同盟相手は、よってその敵は、しばしば政治状況によって変化した。そのため、コンスタンティヌスの寄進状への態度が一貫するとは限らなかった。
今日においては、中世ヨーロッパで最も重要な偽書の一つとして認知されている。
ラテン語の改革:『ラテン語の典雅』
1441年、ヴァッラは正しいラテン語の使い方を教えるべく、ラテン語の文法書たる『ラテン語の典雅』を公刊した。これが大いに人気となり、ヨーロッパ各地の学校で採用された。ヴァッラは当時のラテン語研究の水準を一気に引き上げた。
『ラテン語の典雅』はヴァッラの時代の知識人にたいして、古代ローマの典雅なラテン語を用いて書くよう促す文法書である。
ラテン語は古代ローマの時代に最も優れたものになっていた。だが、民族大移動などによって西ローマ帝国が滅んだ後、西欧ではラテン語のレベルが急速に落ち込んでいった。
そのため、中世のラテン語は古代ローマのラテン語よりもレベルが低かった。それのみならず、中世の文法書には誤りも含まれていた。
ヴァッラはこのようなラテン語の状況を認識し、西欧でのラテン語の改革に取り組んだのである。ヴァッラは古代ローマの中でも優れた著作から、模範とすべき多くの文章を収集し、『ラテン語の典雅』に載せた。当時の知識人たちのための実践的な文法書として機能した。
諸方面への批判
他にも、ヴァッラは自身のラテン語の知識を用いて、既存の様々な分野の権威を批判していった。
たとえば、スコラ主義の論じ方や言葉の使い方などを攻撃した。哲学的な議論において、日常ではお目にかかれない風変わりな用語を用いるのではなく、常識的な語句を用いるよう訴えた。
また、ラテン語の文章のお手本ともされていた古代ローマのキケロの文章をも、手厳しく批判した。古代ローマの著名な歴史家リウィウスのローマ史にも批判を展開した。
教皇庁との対決から和解へ
ヴァッラは聖書の使徒信条が12使徒によるものではないと論じた。これが大きな問題となった。というのも、聖典たる新約聖書への攻撃とも理解されたからである。異端審問官が彼の主張を調査し、異端であると宣告した。
そもそも、ローマ教皇庁は上述のコンスタンティヌスの寄進状批判でヴァッラと敵対していたので、これを好機とみなした。だが、アラゴン王の介入のおかげで、ヴァッラはどうにか助かった。
ニコラウス5世が教皇に即位した。彼はルネサンスに好意的であり、ヴァッラを書記官に雇うことにした。そこで、1448年、ヴァッラはローマでその職についた。1450年には、修辞学の教師にもなった。
ウルガタ版聖書の改訂
この時期、枢機卿で学者でもあるニコラス・クザーヌスなどの支援をえながら、ヴァッラは文献学的な手法による新約聖書の注釈書を完成させた。また、多くのギリシャ語の著作をラテン語に翻訳した。
1449年には、ヴァラは新約聖書のウルガタ版を、ギリシア語の原典を参照しながら、修正していった。ウルガタ版とは、当時様々な新約聖書の版があるなかで、最も普及していた版である。
ただし、ヴァッラはギリシャ語版の新約聖書の考察を行ったものの、このギリシャ語版から新しいラテン語版聖書をつくったわけではなかった。あくまで、既存のウルガタ版の改良を施した。このウルガタ版を正しく理解するために、上述の注釈書が利用された。
ウルガタ版の修正において、ヴァッラは次の点で重要だった。ギリシャ語の知識が重要であること、既存の翻訳とギリシア語本文を比較する必要性があること、文法的な正確さを重視すべきこと、新約聖書と同時代の非キリスト教的テクストを文献学的に利用すべきことである。
ヴァッラの意義と影響
ヴァッラの意義と影響力はある面で根本的なものだった。ヴァッラのバルトルス批判で触れたように、ラテン語を正確に理解しない者がラテン語の著作を正確に理解することは難しい。
それだけでなく、ラテン語で正確に思考することも、その思考を伝達するのも難しい。言葉の使い方を誤る者は、誤った思考や空理空論に陥る。だが、ヴァッラからすれば、中世の学者たちはラテン語の理解に問題があった。
ヴァッラはラテン語の研究を通して、ただ単にラテン語の水準を引き上げただけではない。あらゆる学問の刷新を根本的な仕方で図ったといえる。そのため、ヴァッラは既存の中世の権威に大胆に立ち向かった。
宗教に関しては、ヴァッラの新約聖書の写本は16世紀はじめにエラスムスによって発見され、公刊されることになる。その結果、ヴァッラは聖書の文献学者としても名声を確立することになる。
ヴァッラによる聖書の本文修正は、宗教改革の時代において、信仰と恩寵などにかんする教義をめぐる論争で重要となる。
ほかにも、ヴァッラのラテン語刷新の試みはスペインのネブリハに影響し、スペイン・ルネサンスへの開花につながっていく。
ヴァッラと縁のある人物
●アントニオ・デ・ネブリハ:スペインの文法学者。スペイン・ルネサンスの代表者の一人。『スペイン語文法』などを著した。これがスペインの植民地主義と関係をもつ。
→ネブリハの記事をみる
●エラスムス:オランダの哲学者。北方ルネサンスの最大の人文学者。主著には『痴愚神礼讃』や、ルターとの論争の『自由意志論』などがある。ギリシャ語聖書を公刊し、キリスト教人文主義者として認知されている。
→エラスムスの記事をみる
●マルシリオ・フィチーノ:イタリアの哲学者。イタリア・ルネサンスの代表者の一人。フィレンツェでメディチ家に支えられながら、プラトンなどの古典古代の著作の翻訳と研究を行った。プラトン・アカデミーで知られる。
→フィチーノの記事をよむ
●ピーコ・デラ・ミランドラ:イタリアの哲学者。フィレンツェで活躍したイタリア・ルネサンス代表的な人文学者。代表作には『人間の尊厳について』がある。
→ピコの記事をよむ
●コンスタンティヌス1世:古代ローマの皇帝。313年のミラノ勅令などで、ローマ帝国でのキリスト教にたいする態度を迫害から公認へと大きく転換させようとしたことで知られる。コンスタンティヌスの寄進状で知られる。
→コンスタンティヌスの記事をみる
●ティトゥス・リウィウス:古代ローマの歴史家主著は浩瀚な『 ローマ史』である。リウィウスの作品は特に中世から近世にかけて大きな影響力をもった
→リウィウスの記事をみる
ヴァッラの肖像画
ヴァッラの主な著作・作品
『快楽論』(1431)
『ラテン語の典雅』(1441−49)
おすすめ参考文献
木庭顕『人文主義の系譜 : 方法の探究』法政大学出版局, 2021
Peter Mack, Renaissance argument : Valla and Agricola in the traditions of rhetoric and dialectic, Brill, 1993
Jill Kraye(ed.), The Cambridge companion to Renaissance humanism, Cambridge University Press, 1996
James Hankins(ed.), The Cambridge companion to Renaissance philosophy, Cambridge University Press, 2007
Lodi Nauta, In defense of common sense : Lorenzo Valla’s humanist critique of scholastic philosophy, Harvard University Press, 2009