フランス革命は18世紀末にフランスで起こった大革命である。フランス革命に関する一連の記事によって、その背景や展開、意義や影響を説明していく。
この記事は、「フランス革命の概略(3):1791年の国民議会からジャコバン独裁の終焉へ(1791-1794)」である。
1,フランス革命の流れを通史的に追っていく記事
フランス革命の概略(1):背景と原因
フランス革命の概略(2):革命の勃発から1791年憲法制定へ(1789-1791)
フランス革命の概略(3):1791年の国民議会からジャコバン独裁の終焉へ(1791-1794)
フランス革命の概略(4):テルミドールから総裁政府そして革命の終焉(1794-)
2,個別テーマに着目した記事
フランス革命における恐怖政治とは
フランス革命における演劇
フランス革命における植民地と奴隷制
立憲議会の活動
憲法制定に伴い、国民議会が解散され、新たな選挙が行われた。新たな議員たちによる立憲議会が成立した。この議会では、王権支持のフイヤン派と、それに対立するジロンド派が主な派閥を形成した。両者は移住者(亡命者)や、聖職者民事基本法を拒む聖職者、そして植民地問題などをめぐって対立した。
立憲議会は司法制度の改革や、県制改革のような行政制度の改革などを推し進めた。
対外戦争の始まり
マリー・アントワネットはヴァレンヌ逃亡事件の失敗の後も、祖国オーストリアの大公に支援を求め続けた。彼はハプスブルク家の当主であり、神聖ローマ帝国の皇帝でもあった。彼はアントワネットらの要請を受けて、フランス革命への干渉戦争を決意する。
フランス国内では、立憲議会が戦争すべきかどうかで割れていた。ジロンド派は開戦を推進した。そのもとで、1792年4月、ついにルイ16世はオーストリアとの戦争を宣言した。
だが、フランスは連戦連敗だった。財政問題が重くのしかかった。軍隊制度も整っていなかった。指揮官だったラファイエットは戦闘が絶望的だと訴えた。
ルイ16世はこの頃には反革命的な姿勢を示すようになっており、ジロンド派の内閣を罷免した。
ちなみに、フランス軍が当初連敗したのは、身分制解体なども大きな原因だった。革命はフランス軍を様々な仕方で危機的状況に至らせた。
他方で、当時のオーストリアもまた不安定な状況にあり、断固として戦える状態でもなかった。この点について、詳しくは「皇帝フランツ2世と神聖ローマ帝国の終焉」の記事を参照。
8月10日事件
1792年7月には、ジロンド派は国内が危機的だと宣言した。フランス国内では、この危機に対処するために、義勇軍がパリに集まり始めた。
その頃、ジロンド派が王権への対立を強めていった。上述のように、ヴァレンヌ逃亡事件以来、王権への風当たりは強かった。ジロンド派は国王の行政権の廃止に向けて民衆を動員し始めた。国王はすでに立法権を失っていたが、行政権を握っていた。ジロンド派はこの行政権をも奪おうと試みた。
8月10日、王権にたいする民衆の反対運動は反乱へとエスカレートした。無数のパリ市民が王宮のチュイルリー宮殿を襲ったのである。国王たちは一時的に非難したが、王権は停止されることになった。これが8月10日事件である。
国民公会と共和制
1792年9月、民衆に後押しされた議員たちは1791年憲法を廃止し、立憲議会を解散した。新たな憲法を制定すべく、国民公会という議会を招集した。この議会のもとで、フランスは正式に王制を廃止して共和制に至った。1791年憲法の成立から1年ほどのことであり、その時には予想していなかった事態となった。
国民公会では、議会内の右翼にジロンド派が、左翼に山岳派がおり、中央に平原派がいた。伝統的な理解では、ブルジョワ的なジロンド派と、急進主義的な山岳派が勢力対立を繰り広げることになる。山岳派は全国規模の政治組織のジャコバン・クラブと密接な関係にあった。
1791年からの経済
1791年から、中央政府は異なる経済的アプローチをとるようになった。長期的に経済を変革する新しい法的・行政的仕組みの構築を開始したのである。この仕組みの中心に機会均等の原則を据えた
同年1月には、政府は特許制度を設立した。3月には、ギルドを廃止し、職業選択の制限を撤廃した。6月には、すべての労働者の団結が禁止された。9月には、誰でも望むものをほとんど何でも作ったり売ったりできるようになった。
だが、中央政府に対する信頼が低下していたことにより、アッシニア通貨が急速に暴落した。1791年12月までに25%、1792年3月までに40%もその価値が下落した。インフレの高まりによって、国民の生活が一層苦しくなった。
ジロンド派の政権から追放へ
この時期は当初、ジロンド派が政権を握っていた。山岳派と対立するようになった。特に、もはやただの市民となったルイ16世の処遇を巡って対立を深めた。革命裁判が行われた。1793年1月、山岳派の意見が通り、ルイ16世はギロチンで処刑された。同年中に、マリー・アントワネットも処刑された。
激動の時代を生きたルイ16世とアントワネットについて、詳しくは次の記事を参照
・ ・
危機の増大
フランスの危機は深まり、混沌と不満が渦巻いた。国内では、上述のようにアッシニア通貨がインフレを起こし、庶民の生活を悪化させた。同時に、反革命の不満は高まっていた。
対外戦争のために、議会が国民皆兵の徴兵制を導入した。これがきっかけで、ついにヴァンデ地方で反革命の反乱が生じた。さらに、ルイ16世の処刑が一因となって、従来のオーストリアやドイツだけでなく、イギリスがフランスへの干渉戦争を開始した。そのような多面的な危機の中で、都市部などでは食糧危機が生じた。
民衆は事態に対応できないジロンド派に不満を高まらせた。他方、山岳派が民衆の支持を獲得していった。両者は対立し、批判の応酬を繰り広げた。だが、事態は膠着した。山岳派はなにか手を打たなければならないと考えた。
ついに、1793年5月末、山岳派は民衆の後押しをえて、国民公会からジロンド派を追放するのに成功した。8万人ほどのパリ市民が国民公会を取り囲み、ジロンド派への処罰を要求したのである。ジロンド派は国民公会から追放され、投獄された。
山岳派あるいはジャコバンの独裁
かくして山岳派が政権を取った。まず、普通選挙制などの重要な特徴をもつ新しい憲法を制定した。この憲法は、労働できない人々に教育や雇用あるいは生存手段を提供する国家の義務を明記しており、社会政策を推進するものだった。
だが、この憲法は反革命の危機が迫っているという理由で、実施を延期した。そのかわりに、山岳派は憲法に基づかない臨時的な革命政府を樹立した。
山岳派はこの革命政府において、独裁を行った。特に、国民公会に設置された委員会の中でも、公安委員会が多くの権限を握り、主導的役割を担った。
山岳派は農民や民衆の要求に対応した。領主制が実質的に残存していたので、その廃止を徹底した。さらに、ジロンド派が対応に失敗していた食糧危機の問題にたいして、より実効的な解決策を提供しようとした。
すなわち、買い占めを禁止し、公立の貯蔵庫を設置した。だが凶作となったため、さらに最高価格令を出した。40品目ほどの生活必需品の価格の上限を定めたのである。このようにして、民衆の食糧危機に対応しようとした。
これらの統制経済を要求し、ジャコバン派の独裁を支持していたのはサン・キュロットと呼ばれる下層民だと考えられている。キュロットは貴族やブルジョワが着用した半ズボンである。
サン・キュロットはそれを着用しない職人や商店主などの下層民であった。サン・キュロットは政治的平等や直接民主政などを求め、民衆運動の主体になったと考えられてきた。
ジロンド派の反乱へ
ジロンド派の代議士たちは追放されたまま黙っていたわけではなかった。多くがパリを脱出し、カーンなどの地方都市に拠点を移した。彼らはジャコバン派による弾圧に抵抗するために、中央委員会を結成した。
ジロンド派はフランス全土に委員を派遣して支援を求めた。国民公会の主導権を取り戻すために、パリへの武装行進の準備を進めた。すなわち、反乱の準備を始めたのである。もっとも、彼らはフランスでの内戦の扇動者として批判された。
この反乱では、ボルドーやマルセイユ、リヨンなどの地方都市がジロンド派に味方した。このような動向は、それまでの国民公会での派閥争いや、パリの群衆の手に負えない街頭政治に対する地方の不満の表れでもあった。
この反乱がフランスの状況をさらに緊迫化させた。対外戦争のみならず、内部での反乱がさらに国民公会を苦しめることになる。
ロベスピエールの恐怖政治
したがって、山岳派の革命政府は危機的状況にあった。対外戦争ではなかなか反転攻勢に移れなかった。この危機的状況で革命を完遂するために、公安委員会のロベスピエールは恐怖政治を展開した。たとえば、死刑判決を下すための法的手続きを簡素化するなどして、敵対勢力の排除を容易にした。
推計で、1793年から94年にかけて、だいたい17000人の男女がギロチンで処刑された。 裁判を待つ獄中での死者は約1万人だった。さらに、武装した反逆者にたいする即決の処刑も1万人ほどだった。
1794年4月には、ロベスピエールはジャコバン派の中でも穏健的だったダントン派をも処刑するに至った。ロベスピエールの恐怖政治はフランス革命自体の恐怖として喧伝されるようになる。
だが、状況は変わっていった。恐怖政治を可能にしていたフランスの危機的状況が去ったのである。革命政府は内乱を鎮圧し、対外戦争でも勝利できるようになっていった。その結果、ロベスピエールは反対勢力を抑え込めなくなる。7月末、ついにロベスピエールらは逮捕され、処刑された。テルミドールのクーデターである。
恐怖政治について、より詳しくは次の記事を参照
・ ・
【より詳しく】政治クラブの重要性
かくして、ジャコバン派の独裁が崩れた。ジャコバン派は政治クラブの一つである。これらの政治クラブが議会の内外で派閥を形成し、あるいは全国規模で活動した。ここまで、その派閥抗争が革命の前半で重要な役割を果たしてきたことをみてきた。
そのため、歴史学では、なぜこれらの政治クラブが派閥を形成し、派閥抗争がこれほど重要なものになったのかが論じられてきた。
派閥の形成と闘争
派閥形成の原因としては、イデオロギーか状況か、あるいは国家が弱かったことが挙げられている。
第一に、イデオロギーが原因と考えた場合、それぞれの代議士などは自分たちの様々な政治的あるいは社会的な信念などによって結集し、政治クラブを結成した。そのイデオロギーの違いゆえに、それぞれの政治クラブは相いれず、対立を深めたとされる。
第二に、状況が原因の場合、革命での民衆の暴力の発展や対外戦争の始まりなどの状況の変化が政治クラブの離合集散や交渉などを方向づけたとされる。たとえば、1791年の民衆による国王襲撃は、パリのジャコバン・クラブを急進化させ、そこで生まれた派閥主義は地方のジャコバン・クラブに広がり、全国規模の緊張を悪化させた、と。
第三に、この時期の国家の弱さという原因である。これは当時の状況の一部ともいえる。政府は様々な改革プランを立てて実行しようとした。だが、それを遂行するだけの資源や制度を十分にもっていなかった。しかし、地方や都市から様々な改革の要求が革命政府に寄せられた。政府は明らかに機能不全に陥っていた。
たとえば、政府は税金を徴収することができなかった。そのため、上述のように、教会財産の没収と売却、アッシニア紙幣の発行という例外的な措置をとることになった。それでも、地方では革命政府の宗教政策への反発により、教会財産の売却がボイコットされることもあった。あるいは、都市部などでは食糧危機が住民にとって不安の種であり続けた。
このような政府の機能不全において、ジャコバン派のような政治クラブは民衆と密接に結びついた。その要望を受取り、議会に届け、具体策を促した。ジャコバン派が独裁に至ることができたのは、このような活動によって民衆の支持を得たおかげでもあった。政治クラブはそのような状況で活躍し、政治勢力として重要性を増していった。
これらの政治クラブによる派閥闘争は言論の自由への規制が事実上存在しないことによって後押しされた。それぞれが無制限に誹謗中傷を繰り返すことにより、派閥間の関係が悪化していった。1793年のジャコバン独裁まで、言論規制はなされなかった。
以上のような背景のもとで、有力な政治クラブの派閥闘争が激化していき、ついにジャコバン派の独裁に至ったのである。
政治クラブの役割
他方で、政治クラブは革命においてどのような役割を担ったかについても論じられてきた。政治クラブは民主化と社会正義の原動力として、あるいは派閥主義とテロの温床として論じられてきた。
たとえば、革命からまもなく、スタール夫人はジャコバン派を革命の専制主義的な害悪の元凶とみなした。著名な歴史家のジュール・ミシュレは政治クラブをより好意的にとらえた。
20世紀には、政治クラブを革命のテロの温床とみなす見方が提示された。その際に、政治クラブが平等主義的なイデオロギーを排他的に押し付けたので、そこから恐怖政治が生じたとも論じられた。
マルクス主義的な解釈では、政治クラブはイデオロギー的に排他的ではなかったとされた。政治クラブは状況に屈することを厭わず、国民感情の変動に反応した、と。
別の解釈では、政治クラブは民主的な公共空間を発展させる上で重要な役割を果たしたとされる。
ほかにも、ジャコバン・クラブはフランス本国を超えて、より広範な規模で活動した点に特徴があった。ジャコバン・クラブは、フランス国内に少なくとも6,000の姉妹クラブを持った。
さらに、西ヨーロッパ、アメリカ、インドなどにある何百もの政治クラブや政治結社と正式に提携していた。 ジャコバン・クラブの並外れた活動範囲は、世界史上前例のない国家外の政治活動のモデルを作り上げた。
フランスのアンティル諸島の植民地でいわゆる「ブラック・ジャコバン」(黒人のジャコバン主義者)が革命運動を起こしたのは、その影響の一つだった。また、フランス革命後にも、ジャコバン・クラブは超国家的な政治結社のモデルとなった。
ジャコバン独裁の時期の経済
ジャコバン独裁や恐怖政治を可能にした危機の最たるものは経済的危機だった。政府はこれを乗り切るために、自由主義の経済政策を大幅に制限し、経済を大胆に統制しようと試みた。そのため、この時期の経済を詳しくみてみよう。
まず、この経済的危機の内実である。イギリスなどは干渉戦争において、効果的な海上封鎖を行い、フランスの植民地を攻撃した。フランスの農民や貿易会社などは重要な原材料や海外市場とのつながりを失った。
その結果は厳しいものだった。ハイチ革命の影響も出てきたため、マルセイユやボルドー、ナントなどの地方都市の経済は急速に悪化した。これが一因となって、上述のようにこれらの地方都市がジロンド派の反乱に味方したのである。
さらに、この海外封鎖などは食糧不足を悪化させた。軍隊への食糧供給だけでなく、パリなどの都市で食糧問題が抜き差しならない問題となった。
そのため、中央政府は徹底的な経済介入を決めた。軍と都市を優先して食糧を配給した。その方策として、 1793年5月、上述の最高価格令を下した。穀物は法定価格で、定められた市場でのみ販売されることになった。買い占めは死刑によって禁止された。食糧を徴発し、公的穀物貯蔵庫を設置した。
1794年春から、公安委員会は全国的に価格を平準化することに着手し、次第に成功を収めた。
さらに、政府は賃金にも上限を設定した。1790年の水準から50%以内の範囲でしか賃金を設定できないと定められた。
ところが、これらの政府の価格統制はしばしば実効性が乏しかった。まず、フランスの大部分において、食料は法定の最高価格でも入手できなかった。闇市場が活況を呈した。公安委員会はしばしば最高価格を超えた料金の追加を認めざるをえなくなった。このような価格の再調整は、最高価格の計算において、輸送費が大幅に過小評価されたことなどが原因だった。
賃金統制は物価統制よりも困難だった。人件費が法定の水準をはるかに超えて上昇していたためである。
これらの統制以外に、中央政府はより積極的な仕方で経済に働きかけた。
たとえば、中央政府はパリで軍事産業の発展に大きく寄与した。熟練労働者や原材料などを全国から集め、工場をつくり、軍需品を大量生産した。銃剣、剣、ブーツ、軍服、帽子、火薬、弾薬、銃身、馬具、鞍などである。
銃火器としては、15万5,000丁のマスケット銃とピストル、1,500門の青銅製大砲が製造された。中央政府は何万人もの労働者をあつめ、法定賃金のもとで、ノルマを与えて働かせた。
さらに、中央政府は科学者を動員した。軍需品の開発や改良などに役立たせた。たとえば、気球が大砲の射撃を指示するのに利用された。 1794年には、公安委員会は国立芸術科学研究所を設立した。
【より詳しく】サン・キュロットの実態とは
「サン・キュロット」にかんする見方は修正を受け、複雑化してきている。かつては、サン・キュロットといえば、下層階級に深く根ざし、暴動という大衆的暴力を爆発させようと熱望する「民衆運動」のイメージが主流的だった。だが、このようなイメージが実態にあわないと指摘されるようになっている。
サン・キュロットは次のような下層民だと考えられてきた。サン・キュロットは本質的に受動的な労働者階級である。彼らは中産階級の急進派の思想や、ギルドの親方たちの実践的指導によってのみ、サン・キュロットとして覚醒することができた、と。
このような受動的な群衆としてのサン・キュロットのイメージが問題視されている。たとえば、彼らがむしろ自発的に政治に身を投じようとする能動的側面が指摘されている。
あるいは、そもそもサン・キュロットというものが地に足の着いた現実というより、政治的なレトリックの産物だともいわれる。すなわち、ジャコバン派などが自身の様々な政治的決定を正当化するために、民衆の飢餓を根拠として提示した。
その際に、サン・キュロットという存在をこしらえた。ジャコバン派はサン・キュロットのニーズに応えるための決定を下し、行動を起こしたのだ、と。よって、この見方によれば、サン・キュロットはジャコバン派などが自己弁明のために拵えた概念であり、実体を欠く。
あるいは、こういう指摘もある。下層民の人々は、変化する政治状況に合わせて、当時認識されていた「サン・キュロットらしさ」に自らを適合させる行動をあえてとることもあった、と。よって、サン・キュロットというものが政治エリートの産物だったとしても、群衆の中には、その産物に自らを合わせようとする動きがあったのである。
革命での植民地や奴隷制の問題
ジャコバン派は恐怖政治のもとで統制経済を手動する中で、1794年2月に奴隷制を廃止した。奴隷制はフランス植民地での砂糖栽培で利用されていた。砂糖貿易はフランスの重要な財源となっていた。そのため、奴隷制は重要な経済的な問題であった。
同時に、フランス人権宣言はすべてのフランス人の権利を論じていたので、奴隷制は政治的な問題でもあった。
さらに、この奴隷制を廃止すべく、まさにそのフランス植民地では、1792年から反乱が生じた。ハイチ革命である。その結果、フランス本国への砂糖流入が減った。植民地での革命はパリなどでの食糧危機を悪化させたのである。
このように、奴隷制や植民地の問題はフランス革命にとって重要な問題だった。これについて、より詳しくは次の記事を参照。
関連記事
フランス革命の概略(1):背景と原因
フランス革命の概略(2):革命の勃発から1791年憲法制定へ(1789-1791)
フランス革命の概略(3):1791年の国民議会からジャコバン独裁の終焉へ(1791-1794)
フランス革命の概略(4):テルミドールから総裁政府そして革命の終焉(1794-)
フランス革命における恐怖政治とは
フランス革命における演劇
フランス革命における植民地と奴隷制
おすすめ参考文献
Whiteman, Jeremy J., Reform, Revolution and French Global Policy, 1787–1791 (Aldershot, 2003)
Dubois, Laurent, A Colony of Citizens: Revolution and Slave Emancipation in the French Caribbean, 1787–1804 (Chapel Hill, 2004).
Aberdam, Serge, et al., Voter, élire pendant la Révolution française, 1789–1799: Guide pour la recherche (Paris, 2006).
Martin, Jean-Clément, Violence et révolution: Essai sur la naissance dʼun mythe national (Paris, 2006).
Doyle, William, Aristocracy and its Enemies in the Age of Revolution (Oxford, 2009).
Biard, Michel (ed.), La Révolution française, une histoire toujours vivante (Paris, 2009)
Feilla, Cecilia, The sentimental theater of the French Revolution (Routledge, 2016)
Andress, David (ed.), The Oxford handbook of the French Revolution *Oxford University Press, 2019)
von Güttner, Darius, French Revolution : the basics (Routledge, 2022)
山﨑耕一『フランス革命 : 「共和国」の誕生』刀水書房, 2018
高橋暁生編『 「フランス革命」を生きる』刀水書房, 2019