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紫式部:女房や作家としての生き方と『紫式部日記』をめぐって

 紫式部は平安時代中期の作家・歌人。清少納言とともに、平安時代中期の文学を代表する人物の一人。本名は未詳。代表作には『源氏物語』や『紫式部日記』がある。和泉式部とともに、藤原道長の娘の藤原彰子に仕えた。その作品が注目を集めてきたのみならず、本人と清少納言や和泉式部らとの関係も注目されてきた。

紫式部の生涯

 紫式部は藤原為時(ためとき)と為信(ためのぶ)の娘との間で、次女として生まれた。父は漢学者・詩人だった。また、一族は藤原兼輔(かねすけ)などの多くの優れた歌人を輩出していた。同時に、彼らは紀貫之らの優れた歌人を庇護していた。

 紫式部は早くに母をなくし、父の手で育てられた。幼少より父の影響で漢籍や歌に親しみ、学才を開花させた。996年、父が越前守に任命され、式部もまた越前に移った。だが、998年頃に単身で戻った。

『源氏物語』での作家としての成功:清少納言や和泉式部と同じ宮廷にて

 999年、紫式部は藤原宣孝(のぶたか)と結婚した。宣孝は20歳以上も上で、すでに多くの妻子をもっていた。紫式部は賢子を産んだ。なお、賢子はのちに後冷泉院の乳母になる。
 1001年、夫が没した。この頃、紫式部は『源氏物語』の執筆を開始したようである。

 1006年頃、紫式部は一条天皇の中宮の藤原彰子(しょうし)に出仕を始めた。彰子は藤原道長の娘だった。紫式部はこの頃の動向を、後述の『紫式部日記』で綴っている。清少納言については手厳しい評価を下した。なお、1009年には、和泉式部もまた彰子に出仕を始めた。 
 晩年には、紫式部は歌集『紫式部集』を編纂したと思われる。『紫式部集』は紫式部の自撰の歌を集めた家集である。130首ほどを所収している。贈答歌が多い。
 没年は未詳である。

 藤原彰子とその女房集団について

 上述のように、紫式部は藤原彰子に女房として使えていた。その様子については、『紫式部日記』で書いている。そこでは、彰子に対する紫式部の態度は、賛美が主なものだと一般的に考えられている。
 しかし、実際には、紫式部は彰子にたいしてより批判的な態度をとっていたという指摘もある。というのも、彰子にたいする称賛は実際には具体的な内容を欠いているので、表面的なものでしかない可能性があるためである。
 さらに、紫式部は彰子の女房集団が定子の女房集団に比べて劣っていることを問題視していた。ある種の劣等感を抱いた。彰子に自身の女房集団を引っ張っていってほしいと望むが、そうなっていない。そこに、パトロンとしての彰子の問題を見出していた。
 紫式部は自身の同僚の女房集団にたいして、文芸面で彰子の引き立て役になれていないことを批判した。
 同時に、紫式部は同僚たちの女房としての実務能力の不足をも批判した。女房としての実務とは、貴人の来客への応対や、衣食住の世話などを指す。なお、紫式部自身は具体的な公職にはついていない中臈女房だった。

和泉式部についての評価

 和泉式部もまた藤原彰子の女房の一人である。よって、紫式部と同僚である。紫式部は和泉式部について、『紫式部日記』でこう批評している。
 和泉式部は、ライヴァルのサロンに属していた斎院中将よりは面白い手紙のやりとりをする人であり、その点では芸達者であろう。和歌についても素晴らしいものをつくる。

 だが、古い歌の使用法などをみると、和泉式部は正統派の歌人ではないようだ。それでも、言葉のセンスには目を見張るべきものがある。そのような耳目を引く言葉を含んだ和歌を次々と生み出すことができる。とはいえ、感心するほどの歌詠みとはいえないが。
 このように、紫式部は和泉式部の歌人としての才覚を一定程度評価していた。

 藤原道長との関係

 紫式部は彰子の父たる道長と男女の関係にあったであろうと長らく語られてきた。それは『紫式部日記』での贈答歌や、藤原為時の史料などを根拠としてきた。
 この見方については、批判的な意見もある。この時代の宮廷人の文化生活の中心には、和歌があった。そ の主題は主に恋愛であった。よって、恋愛に関わる和歌の贈答が道長との間でなされていたとしても、それは実際に男女関係があったことに直結しない。

 むしろ、二人は贈答での疑似恋愛を楽しんでいただけかもしれない。とはいえ、道長は紫式部の局を訪れてもいるので、この問題は簡単には解決しないだろう。
 道長が紫式部の『源氏物語』に深い興味を抱いていたことは知られている。紫式部の手元にあった 『源氏物語』を、道長が見つけて、無断で持っていき、次女の妍子に与えてしまったというエピソードも有名である。
 ほかにも、道長と紫式部の互いの贈答歌には、本書に関わりのあるものも含まれているように思われる。

『紫式部日記』

 『紫式部日記』は仮名日記である。1008年(寛弘5年)の秋から1010年(寛弘7年)の正月までの時期を対象にしている。これは1010年の夏頃になって、回想しながら書き上げたもののようである。 
 本書の大部分の記事は1008年の後半に関するものである。消息文が挟まり、1009年と1010年の正月の儀式の記事がみられる。このように、本書は構成などが一般的でないため、その基本的性格をめぐって議論をよんでいる。
 本書は藤原彰子による敦成(あつひら)親王の出産を中心に、宮廷生活について描いている。敦成親王は1008年9月に誕生した。その後の様々な儀礼や宮廷人の動向、そしてその中で活動する紫式部自身の心境が描かれている。

 消息文の部分では、著名な文人でありながら同僚の女房だった清少納言や和泉式部などへの批評などが示されている。1010年正月の記事では、敦良(あつなが)親王の誕生による儀礼が中心に描かれている。

『紫式部日記』はなんのために書かれたか

 上述のように、『紫式部日記』の基本的な性格をめぐって、学者の間では意見が割れている。この日記は藤原道長の要請による公的な記録だという説が伝統的である。
 だが、これに批判的な見解もある。本書は 文末表現や敬語などの点からすれば、道長のようなパトロンに向けたものというより、備忘録に近いのではないかと指摘される。
 本書は第三者的な見聞録であるという説もある。
 たとえば、次のような考えもある。現存する『紫式部日記』は、父為時を第一の想定読者とし、娘の賢子をも想定読者とする。
 これは紫式部がこのような父への活動報告として記した仮名日記を基にしている。そのうえで、内省的な記事を付加している。このような「別記」の集合体として成立したものである。
 その場合、『紫式部日記』は当初から完結した文学作品として制作されたわけではないことになる。それでも、それは文学的価値を十分に有するので、文学作品として読むこともできるだろう。

 本書では、1008年の記事において、紫式部は宮仕生活での苦悩や疑念などを表明している。そこには、紫式部の女房としての深刻な自省がみられる。その次の消息文では、同じく宮仕えする他の女房たちへの批判を行っている。そこでは、彼女たちへの怒りがみてとれる。

 同時に、女房としての自分自身を見つめ直すこともしている。次の1010年記事では、1008年記事のような深刻な自省などがみられなくなる。宮仕えへの疑念などが和らぎ、それを受け入れる姿勢が現れる。女房としての成長が見てとれる。

 本書はこのような様々な要素から構成される複雑な作品である。そのため、基本的性格をめぐる議論は今後も続くことだろう。

『源氏物語』

 『源氏物語』は紫式部が存命中に、すでに宮中で読まれ、人気を博した。紫式部自身は当初、父の官職などにちなんで、藤式部と呼ばれていた。だが、おそらく『源氏物語』に登場する紫の上にちなんで、紫式部と呼ばれるようになった。

 ただし、『源氏物語』の制作にかんしてはいまだ明らかでない点も多い。たとえば、そもそも『源氏物語』の著者は誰なのかという点である。紫式部がその著者であった可能性が最も高いと考えられている。

 しかし、紫式部だけが唯一の著者だったのかという点などは明らかではない。たとえば、紫式部が『源氏物語』の原本を書き上げた後に、他の著者が書き足しを行ったという可能性も指摘されている。

 あるいは、紫式部がいわば前編の著者であり、後編の著者は別人だという説もある。実際に、紫式部以外の人物が勝手に新たな章を付け加えたと考えられているものもある。それらは現在、『源氏物語』の中には含められていないが。
 『源氏物語』の原著が散逸してしまったため、『源氏物語』にはいまなお謎の部分が多い。

紫式部と縁のある人物や事物

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紫式部の肖像

聞いて愉しむ『源氏物語』

おすすめ参考文献と青空文庫

廣田收, 横井孝編『紫式部集の世界』勉誠社, 2023

久保朝孝『紫式部日記論』武蔵野書院, 2020

池田節子『紫式部日記を読み解く : 源氏物語の作者が見た宮廷社会』臨川書店, 2017

山本淳子『紫式部日記と王朝貴族社会』和泉書院, 2016

※紫式部の作品は青空文庫で無料で読めます。
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person52.html

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