ジョアン3世はポルトガルの黄金時代の国王(1502ー1557)。敬虔な人物として知られ、国内では異端審問所の導入などの宗教政策を実施した。国外へのキリスト教の宣教にも熱心であり、東アジアにあのザビエルを派遣した。ジョアン3世の生涯と功績を知ることで、ポルトガルの黄金時代の光と影を知ることができる。
ジョアン3世(João III)の生涯
ジョアン3世の父はマヌエル1世で、母はスペインのカトリック両王と呼ばれたイサベラ1世の娘マリアである。
なお、ジョアン3世の娘はのちにスペインのフェリペ2世と結婚することになる。これによって、フェリペが後に1580年にポルトガル王に即位してポルトガルを併合する根拠がうまれる。
ポルトガルはマヌエル1世の時代に、東アジアへの進出を果たした。マヌエルのもとで、ヴァスコ・ダ・ガマが東インド航路を開拓し、インド貿易を始めたのだ。ポルトガルは南アジアや東南アジアに海洋帝国を構築していく。
1521年、マヌエル1世が没した。ジョアン3世は19歳でポルトガル王に即位した。ジョアンは慎重な人物として知られた。さらに、敬虔さでも知られ、敬虔王と呼ばれた。
ジョアン3世の治世
国内では、ジョアン3世は多くの面で父マヌエルの政策を継承した。たとえば、王権を強化するために、国内の領地の多くを王室が所有していった。1550年頃には、ポルトガルのほとんどの主要都市とポルトガル全体の40%近くが王家の領地になっていた。
ジョアン3世は文芸のパトロンとなって、文化の発展を推進した。宮廷に学者や芸術家を迎え、貴重な書物などを収集し、学芸の発展を推進した。ただし、治世の後期にはこのような活動を弱めたともいわれる。
さらに、ジョアンは様々な宗教政策を強力におしすすめた。その際に、ジョアンは父マヌエルと同様に、国内の教会にたいする支配を強めていった。国内の主要な教会の人事権などをしっかり握った。
ユダヤ人対策:追放
国内では、コンベルソ(キリスト教に改宗したユダヤ人)への対策をスペインと同様に推し進めた。
スペインでは、ユダヤ人にたいして、キリスト教徒に改宗するか、あるいは追放されるかの二択が迫られた。多くのユダヤ人は改宗した。だが、改宗は表面的でしかないケースも多かった。スペインはこれを問題視し、偽装改宗として厳しく取り締まった。
スペインで改宗に応じず、追放されたユダヤ人の多くは隣国のポルトガルに逃れていた。だが、彼らはポルトガルでも安穏とはしていられなくなった。ジョアンの父マヌエルがユダヤ人やコンベルソにたいして同様の厳しい政策をとったためだ。
ジョアンもまたポルトガルでも同様の方針をとり、厳しいユダヤ人政策を展開した。
異端審問所の導入
その流れで、1536年、ジョアンは異端審問所を導入した。当初の異端審問の主な対象は上述のコンベルソだった。だが、旧来のキリスト教徒の異端的行為もまた対象になっていった。
1540年には、異端の罪で火刑が執行された。さらに、1547年には、禁書目録制度を設立した。これもまたローマ教皇庁の制度とは別個だった。そもそも、教皇庁の最初の禁書目録が設立されるのは1557年になってからのことである。
同時に、ポルトガルの異端審問所はスペインの異端審問所と同様の特徴をもっていた。すなわち、王権を国内で伸長し中央集権を確立する道具としても利用された。
その背景として、どちらの国においても、各地方の貴族などは王権に対抗する勢力を保持していた。そのため、異端審問所は彼らを王権に服従させ、国内を分権的な状態から中央集権に至らせる手段として重宝された。ポルトガルの異端審問官の任命権はローマ教皇にではなくポルトガル王が持っていた。
イエズス会の導入
1540年、ジョアンは新設されたばかりのイエズス会をポルトガルに導入した。イエズス会はカトリックの修道会である。
その後、イエズス会は200年間ほどポルトガルに強い影響力を行使することになる。大学の講師陣に選ばれたり、王侯貴族の宗教担当を担ったりしたためである。
ジョアンはプロテスタント対策も行った。ドイツで1517年に宗教改革が始まった。その宗派がポルトガルに流れ込まないよう対策がとられた。実際、ポルトガルではプロテスタントの影響はあまりみられなかった。
対外政策:海洋帝国の発展と困難
ポルトガルは大航海時代の先陣を切った国である。1415年にポルトガルがアフリカ北部のモロッコのセウタを攻略したのが大航海時代の始まりとされる。父マヌエル1世の時代に、ポルトガルは海洋帝国として本格的に発展した。
たとえば、ヴァスコ・ダ・ガマによる東インド航路の開拓に成功していた。念願だったインドとの香辛料貿易を始めた。インドや東南アジアへの本格的な進出を開始した。ブラジルを「発見」し、植民地建設を始めた。ここから、ポルトガルの黄金時代が始まった。
ジョアン3世の時代は黄金時代のさなかにあった。だが、徐々に勢力にかげりが見え始めた時期でもある。父の時代に一挙に拡張しすぎた帝国を管理し、必要に応じて縮小することを余儀なくされる。他方で、ブラジルでは本格的な入植を開始した。
貿易は王室独占か自由か
マヌエルの時代から、ポルトガルは東アジアでのネットワーク形成で資金難に陥り始めていた。これはジョアンの時代にも続いた。というのも、東インド航路や東アジアの海では、オスマン帝国や各地のスルタンなどと海戦を行っていたため、戦費が嵩んだためだ。
そのため、ジョアンはポルトガル海洋帝国の一部を放棄して支出を減らそうとした。特にモロッコの征服は放棄した。
また、戦争の費用を補うために、貴重な香辛料の貿易は王室の独占貿易にするなどの政策を打ち出した。だが、これは貴族らの強い反発を受けた。さらに、現地で活動するポルトガル商人が王室の独占貿易の法令を無視して、次々と密貿易を行った。
ポルトガル王権と植民地政府はこれを統制するのに失敗した。主な交易地は東南アジアの島々だったので、統制が非常に困難だったのである。
そのため、結局は独占貿易政策を放棄することになった。 それでも、王権の主な収入は海外貿易による利益であり続けた。主に東アジアの香辛料とアフリカの金だった。
ザビエルの東アジア派遣
ジョアンは東アジアやブラジルへの宣教活動を推進するために、宣教師を募集した。新設されたばかりのイエズス会から、ザビエルが派遣されることになった。かくして、ザビエルに東南アジアの宣教を委ねた。
結果として、ザビエルは日本宣教を開始することになり、キリスト教会を最初に日本で樹立した。かくして、日本のキリシタン時代が始まる。ポルトガル海洋帝国での最大の貿易利益は日本との南蛮貿易で得られることになる。
ジョアンの時代に、海禁政策によってなかなか門戸を解放しない中国において、マカオに拠点を形成するのに成功した。ジョアンは広大な宣教エリアに派遣すべき優秀な宣教師を国内で育成するために、国内の大学に外国の教授陣を積極的に誘致した。
ブラジルの植民地建設
ジョアン3世の時期に、ポルトガルのブラジル植民地建設の試みが本格化していった。1549年、ブラジル総督府が設立された。サルヴァドールに首都が建設された。
ジョアンはブラジルに世襲制のカピタニアという制度を創設した。ブラジルは15のカピタニアに分けられ、カピタン・ドナタリオに譲渡された。小貴族や官僚、商人などがカピタン・ドナタリオになった。カピタンは経済や統治の権力をもった。
カピタニア制はブラジルをヨーロッパ主義経済に統合するための過渡的な実験的試みだった。だが、すべてのカピタニアが資金難や内紛や先住民の攻撃で失敗におわった。17世紀なかばまでに、これらは徐々に王権に買い戻された。
ジョアン3世と縁のある人物
☆ザビエル:ジョアンの依頼で結果的に日本宣教を始めた。そこから南蛮貿易が本格的に始まり、ポルトガルに大きな利益をもたらすことにもなる。
☆マヌエル1世:ジョアンの父だったポルトガル王。ヴァスコ・ダ・ガマに東インド航路を開拓させて、ポルトガルの東アジア進出を本格的に開始した。ジョアンの時代はその延長線上にあるため、マヌエル1世についても知ることが望ましい。
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ジョアン3世の肖像画
おすすめ参考文献
金七紀男『図説ポルトガルの歴史』河出書房新社, 2022
金七紀男『ブラジル史』東洋書店, 2009
Charlotte de Castelnau-L’Estoile(ed.), Connaissances et pouvoirs : les espaces impériaux (XVIe-XVIIIe siècles) : France, Espagne, Portugal, Presses universitaires de Bordeaux, 2005
A.R. Disney, A history of Portugal and the Portuguese Empire : from beginnings to 1807, Cambridge University Press, 2009
E. Michael Gerli(ed.), The Routledge Hispanic studies companion to medieval Iberia : unity in diversity, Routledge, 2021